秀頼に対する
茶々の「教育ママ」ぶり

 1607年に、家康は伏見城から駿府城に引っ越した。今川家の人質として長く駿府にいたので、故郷そのものだ。富士山が見えることも気に入った理由である。幕府の実務を江戸の秀忠に部分的にせよ譲ったので、連絡を取りやすくする必要が出たこともあろう。

 茶々は、秀頼に「教育ママ」ぶりを発揮した。清少納言を生んだ清原家の流れをくみ、後陽成・後水尾天皇の侍読(家庭教師)で最高のインテリでもあった舟橋秀賢に、政治・法律・軍学・漢籍・和歌などを教授させた。

 また武芸では、最後の近江守護だった六角義治に弓矢を教授させるなど、当時としては最高の教育レベルで、家康の子どもなどとは比べものにならないものだった。

 1608年には、秀頼と侍女との間に国松が生まれた。秀頼は16歳となった一方で、千姫はまだ幼かったので、ごく普通のことなのだが、子どもが男子だけに扱いが難しく、叔母である初が若狭で、身元を明かさずに里子に出した。

 2月には、痘瘡に秀頼がかかり、危ないとのうわさも流れ、福島正則らが見舞いに訪れたが、なんとか無事に回復した。京では、前の年に北野天満宮の新社殿を造営した功徳で助かったといわれた。この頃、秀頼は出雲大社など全国で多くの社寺を造営したが、桃山風の華麗なものだった。

 1609年には、木下家定が亡くなり、寧々は政治的な動きをやりにくくなった。しかも、寧々が嫡男の勝俊にすべて継がせるように命じたことに対し、家康は「自分に相談なくそんなことを命じた」として、寧々を「もうろくしている」と罵倒し、いったんは取りつぶしになった(大坂夏の陣の後に再興)。家康が寧々を大事にしていたことなど一度もない。また、この年、秀頼に天秀尼が生まれた。

 このころ、若くして死んだ家康の四男忠吉の後、九男の義直が尾張に入り、名古屋城を築き始めた。豊臣恩顧の大名たちが天下普請として手伝わされ、福島正則などは大反発した。

秀頼の振る舞いに
不安になった家康

 1611年には秀頼が、秀吉が亡くなってから初めて上洛し、二条城で徳川家康と会談した。後陽成天皇から後水尾天皇への譲位の機会に5年ぶりに家康が上洛してきたので、一度会いたいということだった。茶々は、このときも、秀頼の身の安全を心配して嫌がったが、加藤清正らが勧め、占いでも「吉」と出たので、しぶしぶ承諾した。

 清正と浅野幸長が同行し、福島正則は腹痛を口実に、万一の時に大坂城を守る体制を取った。船で伏見に着いたのを迎えに来た家康の子の義直や頼宣に、清正は秀頼に対して臣下の礼を取らせた。