「井上くんと対戦すると、どれだけ自分が練習と向き合ってきたかがわかる」
――本書では11人のボクサーの生い立ちから井上戦に至るまでのストーリー、試合中の細かい心理描写、試合後の変化などが丁寧に描かれています。ボクシングを詳しく知らなくても引き込まれ、胸を打つシーンが多くありました。葛藤を経て敢行した取材を振り返っていかがですか。
森合 まず驚いたのが、みなさんが試合内容を鮮明に覚えていたこと。日本人も、海外の選手もです。取材中に井上戦のビデオを一緒に見ましたが、見なくても試合展開がわかっているんです。あの時井上くんがこう動いて、それに対し自分はこうしたと。第一章に登場する佐野友樹さんは「命を懸けていたから覚えているのではないか」と語ってくれました。
――ボクシング人生において大きな一敗を喫しても、井上戦を後悔している人がいないことにも驚きました。みなさん、試合ができてよかったとおっしゃっているのが印象的ですね。
森合 そうなんです。実は僕もそう思って、対戦を後悔していないか、井上選手に対する思いはどうかとか、ネガティブな要素を探しにいったことがあります(笑)。でも、オフレコにおいても一切それはありませんでした。
――井上選手が、倒した相手に「対戦してよかった」と言われるのはなぜでしょうか。
森合 「井上くんと対戦すると、どれだけ自分が練習と向き合ってきたかがわかる」と言った人がいます。井上選手がこれまで対戦したのは、みなチャンピオンやトップのボクサーです。当然ものすごいレベルで研さんを積んできています。そんな彼らが井上尚弥と対峙(たいじ)して、井上くんの日々の鍛錬と心の強さがわかったと口々に言う。
そして敗戦を糧に努力を続け世界チャンピオンになった選手もいますし、井上選手が強くなるたびに「井上尚弥と判定までいったボクサー」と再評価を受ける選手もいます。井上尚弥が強くあり続けることは、敗者にも光を当てることなのだと思います。井上くんも言葉には出さないですが、敗れた人たちの分も背負っているという意識があるのではないでしょうか。
――取材を通して、他に印象に残っているエピソードはありますか。
森合 強いものに向かっていく、大きな目標に向かっていくことの大切さはどの選手からも学びました。たとえば、第二章に登場する田口良一さんは、井上選手と戦ったことで「もうこれ以上強い選手はいない」と自信になったと語っています。また、アルゼンチンの英雄オマール・ナルバエスは人生初めてのKO負けで大変なショックを受けますが、母国に戻って翌日からこれまでと同じように淡々と練習を始めたそうです。勝ち負けよりも、それまでの頑張りやそこからの振る舞いが大切なのだと痛感させられました。