質問に対して人間と区別のつかない返答をする生成AI「Chat GPT」の登場で、機械が知能をもつ未来が現実のものになってきた。この驚異的なテクノロジーによって、わたしたちの社会はどう変わっていくのだろうか。
ここでは「AIは人類を絶滅させるか」という問題はいったん脇に置いて、これから20年程度のタイムスパンを考えてみたい。20年は人類あるいは生命の歴史のなかで一瞬にすぎないが、10歳の小学生が30歳に、成人式を迎えた若者が40歳になることを考えれば、個人の人生に決定的な影響を与える期間であることも間違いない。
ここで参照するのは、アメリカの経済学者カール・B・フレイの『テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス』(村井章子、大野一訳、日経BP)だ。フレイは2013年、オックスフォード大学の同僚マイケル・オズボーンとの共同論文「雇用の未来――仕事はどこまでコンピュータ化の影響を受けるのか」で「アメリカ人の仕事の47%は自動化されるリスクが高い」と主張して世界的な議論を巻き起こした。
原題は“The Technology Trap; Capital, Labor, and Power in the Age of Automation(テクノロジーの罠 オートメーションの時代の資本、労働そして権力)”。邦題のサブタイトル「ビル・ゲイツのパラドックス」とは、「イノベーションがこれまでにないペースで次々に出現しているというのに……アメリカ人は将来についてますます悲観的になっている」ことをいう。
機械化はほとんどのひとをゆたかにしたが、自動化は一部の者を大富豪に、残りの者を「負け組」にする
フレイは本書で、人類の歴史を以下の5つの時期に区分する。
大停滞 農耕の開始(1万2000年前)から産業革命前夜まで
大分岐 産業革命
大平等 大量生産と中流の台頭(1870~1970年の100年間)
大反転 中流階級の衰退と格差拡大(1980年~現代)
未来 人工知能の時代
産業革命が「大分岐」になるのは、「1750年以前は、世界の1人あたり所得が倍増するのに6000年かかっていたが、1750年以降は50年ごとに倍増している」からだ。熱によって氷が水(液体)に、水が気体に変わるように、産業革命は人類史の臨界点で、機械(マシン)の発明によって歴史は“相転移”し、わたしたちはまったく新しいフェイズで生きることになったのだ。
フレイは、テクノロジーには「補完技術」と「置換技術」があるという。これは「機械化(mechanization)」と「自動化(automation)」に言い換えることもできる。
機械化はおおむね労働者の仕事を補完するテクノロジーで、工員や運転手など機械を扱う中程度のスキルの職を大量に生み出した。こうして1870年から1970年までの1世紀のあいだに、欧米先進国と、それにつづいてアジアの国々で膨大な数の中流階級が誕生した。社会が平等になり、誰もが未来に希望をもてたこの時期を、フレイは「特別な世紀」と呼ぶ。
ところがコンピュータが機械に組み込まれると、機械化(メカナイゼーション)は自動化(オートメーション)へと次の段階に進んだ。自動化は置換技術で、労働者の仕事を完全に置き換えてしまう。資本家は人間を雇うのではなく、機械に投資することでより大きな利益をあげようとするだろう。
この区分は、経済学者エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーのいう「ファースト・マシン・エイジ」と「セカンド・マシン・エイジ」に対応する。ファースト・マシン・エイジは機械化の時代で、労働者は工場で機械とともに働くことができた。セカンド・マシン・エイジは自動化の時代で、もはや工場労働者は不要になるのだ。
大平等(機械化)の1世紀には、学歴を問わず、すべての労働者の賃金が上がっていた。だが大反転(自動化)の時代になると、高卒以下の賃金が下がりはじめ、その後30年連続で下落が続いた。
自動化は「スキルに有利な技術変化」で、「新しいテクノロジーの導入で、スキルのない労働者の需要よりも、相対的に高度なスキルのある労働者の需要が増える」ことをいう。これによって大学・大学院卒の高学歴労働者の収入が増える一方、スキルのない高卒以下の(主に男性)労働者が職を失ってしまった。これが中流の崩壊と経済格差の拡大として顕在化し、欧米社会を動揺させている。
機械化はほとんどのひとをゆたかにしたが、自動化は一部の者を大富豪に、残りの者を「負け組」にする。これが、「イノベーションがこれまでにないペースで次々に出現しているというのに……アメリカ人は将来についてますます悲観的になっている」というビル・ゲイツのパラドックスの答えだ。
産業革命の最中、職を奪われた織物工たちの怒りは機械打ちこわし(ラッダイト運動)に向かった。現代のアメリカでは、失業した白人のブルーワーカーがトランプを熱狂的に支持し、Qアノンの陰謀論を信じて連邦議会議事堂を占拠する「第二のラッダイト運動」を行なっている、というのがフレイの現状分析になる。
生成AIが大きな衝撃を与えたのは、人間にとって都合のいい役割分担が崩れ、機械に対する優位性が揺らぎはじめたから
人間とコンピュータのちがいを、フレイは「ポランニーのパラドックス」と「モラベックのパラドックス」の2つのパラドックスで説明する。
物理化学者のマイケル・ポランニーは、「人間は言葉で表せる以上のことを知っている」として、これを「暗黙知」と名づけた。鮨の握り方から球速160キロのボールをスタンドに打ち込むバッティング技術まで、直感的にできるものの、明確なルール(アルゴリズム)で記述することが難しく、自動化が困難なことはたくさんある。
ロボット工学のハンス・モラベックは、「コンピュータは人間が楽々とこなせる多くの作業を苦手とするが、反対に人間には困難きわまりない多くの作業をこなすことができる」というパラドックスを指摘した。コンピュータと脳は基盤が異なるので、コンピュータが簡単にできること(微積分や統計学などの複雑な計算)が人間には難しく、4歳児でも簡単にできること(顔を識別したり、相手の意図を理解したりすること)をコンピュータにやらせるのはきわめて難しい。
ポランニーとモラベックのパラドックスを組み合わせると、人間とコンピュータの役割分担が可能になる。情報の保存や検索、計算といった面倒なことはコンピュータにやらせ、人間は(コンピュータが不得手な)暗黙知に集中すればいいのだ。
アルゴリズムに従って情報を処理する従来のノイマン型コンピュータでは、プログラマーがすべての命令を正確に記述する必要があった。それに対して脳は1000億のニューロンと、その1000~1万倍ものシナプス(ニューロンの接合部)によってパターンを認識する。この機械と生物の「思考」方法のちがいによって、人間は機械に対する優位性を保持することができた。
だがAI開発に画期をもたらしたニューラルネットワークは、深層機械学習という手法によって、人間の脳と同じようなパターン認識を可能にした。さらには、データのサンプルや「経験」を通じてコンピュータに自律的に「学習」させることで、車の自動運転や外国語の翻訳など、これまでは難しかった課題を解決する方法を自ら発見するようになった。生成AIが大きな衝撃を与えたのは、人間にとって都合のいい役割分担が崩れ、機械に対する優位性が揺らぎはじめたからだ。
典型的なのは顔認識で、いまや機械は人間よりも早く正確に顔を分類できる。AIによる内視鏡画像診断はこれを利用したもので、その精度は医師の肉眼による診断を上回る。ニューラルネットワークを開発したコンピュータ科学者ジェフリー・ヒントンは2016年に、「人工知能のほうが放射線科医よりも賢くなるので、放射線科医の無駄な教育はやめたほうがいい」と述べた。
だがフレイは、高スキルの仕事が完全にAIに置き換わることはないと予想している。AIが病変を発見しても、それを患者に説明し、治療方針を提案するというより高度な仕事は残るはずだ。弁護士業務における判例調査も同じだが、これらの専門職ではAIは補完技術となり、高スキルの専門家の生産性を高め、収入を増やすことになるだろう。
問題は、高度なスキルが必要な仕事がごく一部であることだ。その結果として、生産性の高い自動化された産業から、コンピュータには難しいが人間なら簡単にできる生産性の低いサービス業に労働者が流れることになった。