スマホという高性能なカメラが発明されたことで、「一枚も写真を撮ったことがない」という人はほとんどいない時代になりました。それなのに、InstagramなどのSNSには、個性のない、似たような「映える」写真があふれています。
本日、写真家のワタナベアニ氏による新刊『カメラは、撮る人を写しているんだ。』が発売されます。これは他の誰でもないあなたにしか撮れない写真が撮れるようになる、新しい写真の入門書です。本書の前書きを全文公開します。(写真/ワタナベアニ、構成/今野良介)
「今までに、一枚でも写真を撮ったことがありますか」
ほぼすべての人が「ある」と答えるはずです。
ナメてんのかと思われたら謝ります。経験上、どんなことでもすぐ謝ったほうが結果がよくなると思っています。
見た目が可愛らしいスイーツを撮る、美味しそうなランチをバエまくりで撮る、恋人からプレゼントされた花束をエモちらかして撮る。誰にでもそんな経験はあるでしょう。もしかしたら朝起きてから夜寝るまで、一枚も写真を撮らない日はないのかもしれません。
スマホという肌身離さず持っている高性能なカメラが発明されたことで、写真を撮るためにわざわざ大げさなカメラを持ち出さなくてよくなりました。ここ十数年で写真を取り巻く環境はフィルムからデジタルへと大きく進化しました。撮った写真はその場で見ることができ、瞬時にソーシャルメディアにアップして、世界中の人々に見せることができます。
デジタルネイティブな今の若い人々は撮った瞬間に写真がモニタに出てくることなど当然です。ですからフィルムからの進化を目撃して知っている我々が彼らに向かって「写真を撮るとは何ぞや」などと古くさいことを言っても、何も伝わらないでしょうし、また目の前にある最新テクノロジーをここで解説したとしても、数年もすれば情報の価値はなくなってしまいます。
では、写真を撮るためには何が大切なのでしょうか。
「見たものを、好きなように、ただ撮ればいい」
園児レベルの言葉に聞こえると思いますが、いくらテクノロジーが進化しようともこれが写真の本質であることは間違いありません。 たとえば子どもが生まれたら誰もが写真を撮るのは、その瞬間ごとに消えていってしまう尊い時間を残しておきたいからでしょう。愛するものを記録しておきたいという「表現の衝動」は有史以来、何も変化していないのです。
モーツァルトの曲やシェイクスピアの演劇が今でも好まれているのは、伝えたい気持ちが理想的なカタチで残されているからで、百年前の写真家のボヤけたモノクロ写真が現代の我々に与える感動も、撮られた瞬間からまったく色褪せていません。「モノクロなんだから色は褪せないだろう」という指摘はさておき、人間が知性を持ってから表現したい題材は何ひとつ変わっていないはずです。
あなたが撮る写真は、あなたが生きている間に見つめたもの、愛したもの、大切に思ったものだ、ということを再確認してください。言葉がすべて過去形になってしまうのは、シャッターを押した瞬間に写真はすべて過去の記録になるからです。その「時間の化石」をあとから見ることで、愛したものへの気持ちが甦ります。
写真のメカニズムや撮影手法を解説した優れた実用書は世の中にたくさんあります。ありまくりです。ですからこの本ではこれまであまり語られることのなかった「シャッターを押す以前の、撮りたい衝動」に絞って伝えようとしています。
人物や料理は逆光で撮りましょうね、と教えられると「ああ、そうすればいいのか」と理解はできるのですが、それはなぜか、どうして順光ではダメなのか、本当に逆光のほうが美しいのか、撮るのは朝か昼か、夏か冬か、北海道の光なのかモロッコの日射しなのか、という無限とも言える疑問を通過せずに「アドバイスその1:人物は逆光で撮りましょう」という教則本のひと言でしか捉えていないと、むしろ逆光が技術に逆行して逆効果になってしまいます。
これから出てくるロバートというお節介なおじさんは、「あなたはなぜ写真を撮るのか」という、カメラを買う前から始まっている哲学的な命題への旅に連れ出したいのです。もしあなたがスマホで日々の写真を撮ることが楽しくなって、本格的なカメラでも買ってみようかな、という鼻息の荒いタイミングならベストなので、鼻息を穏やかにして読んでもらえるとうれしいです。
著者である私はアートディレクターをしていました。簡単に説明するとカメラマンに「こんな写真を撮って」と指示する現場監督のような仕事です。四十歳になるまでカメラマンの隣で撮影現場を仕切っていたのですが、もしかすると自分は後ろのほうから指示しているだけではなく、ステージの一番前に出て撮りたいんじゃないか、という欲求に気づいてしまったのです。そして写真家になりました。
写真家とカメラマンとフォトグラファーは何が違うのか。写真家などと名乗るのは陶芸家みたいな感じで偉そうだと思われるかもしれませんが、そうではなく、私は「浪費家」「愛妻家」くらいのカジュアルな気持ちで使っています。英語圏でカメラマンというと映画の撮影をする人のことなので用法の間違いですし、フォトグラファーと名刺に書くほどバリバリの職業的なムードはないと思っています。ただ、本文ではわかりやすくカメラマンという言葉も使っています。
選手経験がまったくなかったサッカーチームの監督が四十歳くらいになって「俺も出場したい」とユニフォームを着始めたようないい加減なプレイスタイルですが、二十年近く優秀な写真家たちに依頼していた経験はあるので、カメラ操作などの具体的な技術はさておき、どんな写真が撮りたいのか、撮れたらいいのかという衝動の着地点だけははっきりわかっていました。そして今では何食わぬ顔で写真家気取りというわけです。
いい写真とは何ぞや、というストイックでネガティブな精神論に疑問を感じることがあります。楽しそうだからと思って始めたことに、こうやれ、こうするな、あなたは間違っている、と厳しい修行みたいに言われたら誰でもやる気がなくなりますよね。自分が好きなものは、好きなように撮って構わないのです。その写真が誰かから認められて仕事になる人がいてもいいですし、ずっと自分のためだけの趣味であってもいいのです。
写真には優劣などなく、それを無条件に肯定してくれる「精神の自由」だけがあるのだと知ってください。あなたの写真はあなたが撮りたくて撮ったのですから、どんなに偉い写真家であろうと、その良し悪しを決める裁判長のような権利はありません。
プロフェッショナルの場合は要求を満たすために完璧な技術が必要ですが、それでも技術は表現の中のほんの八%くらいでしかありません。残りの九十五%を占める「写真で表現したい感情」について、数字には弱いロバートが口を甘辛くして、カメラを買ったばかりの写真初心者であるカズトくんに話をしています。
たまたまカフェで隣に座ったお客さんのように彼らの話を聞いてみてください。その中にたったひとつでも、あなたが写真を撮るためのヒントになる言葉があればこの本を書いた意味がありますし、ロバートもうれしく思うはずです。
「私は今までに、一枚でも写真を撮ったことがある」
すべての、そういう人のためにこの本を書きました。