直木賞作家・今村翔吾初のビジネス書『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)では、教養という視点から歴史小説について語っている。小学5年生で歴史小説と出会い、ひたすら歴史小説を読み込む青春時代を送ってきた著者は、20代までダンス・インストラクターとして活動。30歳のときに一念発起して、埋蔵文化財の発掘調査員をしながら歴史小説家を目指したという異色の作家が、“歴史小説マニア”の視点から、歴史小説という文芸ジャンルについて掘り下げるだけでなく、小説から得られる教養の中身やおすすめの作品まで、さまざまな角度から縦横無尽に語り尽くす。
※本稿は、『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
歴史に得るイノベーションのヒント
「歴史からイノベーションのヒントなんて見つからない」と思われるかもしれないですが、そんなことはありません。
「世界に通用する町工場」「匠の国」などといわれるように、戦後の日本は技術力の高さで経済を牽引してきました。
歴史的に見ると、この技術力は民衆の知的レベルの高さにあったのは間違いありません。
娘をポルトガル人に嫁がせ
技術を習得した職人
1543年、種子島に鉄砲が伝来したとき、日本人はすぐに真似をして鉄砲を生産することができませんでした。
最大の理由は、当時の日本人がネジの理論を知らず、それを作る技術を持たなかったからです。ネジを使わずに作った火縄銃はどうしても暴発しがちです。
銃の製造に携わった刀鍛冶・八板金兵衛は困り果ててしまいますが、一計を案じた金兵衛は娘の若狭をポルトガル人に嫁がせることを決意。
若狭を通じてネジの技術を入手し、生産にこぎつけたという伝承が残っています(ただし、資料としての記録は残っていません)。
全国的に技術が広がる
話の肝はここからです。ネジの技術を知った瞬間に、日本人は完璧なコピー製品を作り出します。
そして、その技術は和泉国・堺(大阪府堺市)、紀伊国・根来(和歌山県岩出市)、近江国・国友(滋賀県長浜市)など日本全国に広がり、同時多発的に大量生産が始まるのです。
技術が広がるにあたって設計図などが存在したわけではなく、どの鍛冶職人も現物をバラして構造を知っただけで、同じものを再現しています。
日本がたちまち
鉄砲の一大生産国に
記録を見ると、日本に訪れた宣教師たちは鉄砲の大量生産ぶりに度肝を抜かれています。西洋人の感覚では理解不能な技術力だったということです。
西洋では歴史的に知識層と庶民層の知的レベルに大きな差があるのに対して、日本人は庶民の知的水準が高かったのです。
結果的に、日本の鉄砲生産量は世界の3分の1に達します。しかも日本の3分の1を滋賀県が生産していましたから、滋賀は世界の9分の1のシェアを誇っていた計算になります。