人生50年とされる時代だったからだろうが、忠敬は49歳のときに家業を息子に任せることにして隠居した。普通ならそこでのんびりと悠々自適の生活に入るのだろうが、家業から解放された忠敬は、隠居後は好きな道に進むことに決めた。そして、天文学・暦学を学びに江戸に出て、幕府天文方を務める高橋至時(よしとき)に入門した。
引退後に、これまでの仕事とは全く異なる、新たな学びを始めたのである。隠居により家業という役割を失ったと考えるのではなく、家業から解放されたと考えるところが、前向きな第二の人生につながっていく。
測量の手法の習得に
熱意をもって邁進(まいしん)する
忠敬は、至時の元で学び、職場である天文台と自宅の距離を歩測によって熱心に測量したりして、測量技術の基礎を身に付けていった。
忠敬がかつての事業で資産を作っており調査資金をつぎ込むことができることを見越してのことだったのだろうが、至時はその熱意と才能を見込んで、蝦夷地を測量してみることを勧めた。ついに実際の測量に乗り出すことになったのである。これが後の日本地図の作製の発端となった。
そして、55歳のときに第一次測量が始まった。忠敬は、蝦夷地の根室付近と江戸の往復3200kmの道を歩測により測量した。引退後にこれほどの距離を歩いて測量して回るというのは、体力的にも相当にきつかったはずだが、本当にやりたいことであったからこそ、完遂できたのだろう。
忠敬は、江戸から白河、仙台、盛岡、青森と北上し、津軽半島から船で津軽海峡を渡り、渡島半島に上陸し、松前、函館、室蘭、苫小牧、襟裳岬、釧路と北海道の南岸を東進し、根室半島の別海まで行き、そこで折り返して江戸に戻った。当然のことながら歩いて往復したため、6カ月もかかったのだった。
このような大事業には相当な費用がかかり、幕府から与えられた費用はあまりに少なく、ほとんどが持ち出しだったが、49歳までしっかり働いて蓄財できていたため、それを好きなことのために使うことにしたわけである。