幕府に評価され、さらに大規模なプロジェクトに
全国を歩き、測量して回る
伊能忠敬研究の第一人者である渡辺一郎氏によれば、第一次測量を基に忠敬が作製した地図を見ると、蝦夷地南岸の形は現在の地図とほぼ同じようであったという。歩いて歩幅と歩数で距離を測り、羅針盤で方角を測って、そこまで測量できたというのだから驚かざるを得ない。
この成果が評価され、幕府も積極的に後押しするようになり、第2次測量として、忠敬は本州東岸の測量をすることになった。三浦半島や伊豆半島を回ってから、房総半島を回り、三陸を経て下北半島を回り、奥州街道を測量しながら江戸に戻った。今回は8カ月かかった。第二次測量では、歩測のかわりに縄を張って距離を測定したというのだから、並大抵の苦労ではなかっただろう。
この成果である地図も高く評価され、幕府による待遇はますます向上し、第3次測量では奥州の日本海側と越後の沿岸を測量し、第4次測量では東海や北陸の海岸線を測量した。そして第5次測量からは西日本の測量に入った。第5次測量では畿内沿岸と中国地方沿岸を測量し、第6次測量では四国沿岸と大和路を測量し、第7次測量では九州沿岸を測量し、第8次測量では前回測量できなかった屋久島、種子島、壱岐、対馬、五島列島などの島々を測量した。
第9次測量では、さらに伊豆七島の測量となったが、遠距離の渡航となるため、さすがに70歳と高齢の忠敬は参加しなかった。最後に、第10次測量では、江戸の測量をしたが、渡辺氏によれば、忠敬はときどき参加しただけなのではないかという。
やりたいことに乗り出し、15年がかりの
偉業を成し遂げたのは「定年後」だった
このような15年以上におよぶ大がかりな全国の測量によってデータは揃い、忠敬は日本全図の作製に取り掛かったが、完成を前に73歳の生涯を終えた。「伊能図」と呼ばれる大日本沿海輿地全図が完成したのは、その3年後の1821年であった。
日本地図完成を前に人生を終えたとはいえ、引退後にやりたいことをするために勉強を始め、その熱意と努力が実って測量できることになり、死の直前まで15年以上も測量に携わることができたのである。
引退までは家業に専念して立派に義務を果たし、引退後にようやくやりたいことができる立場になり、本当にやりたかったことをやり尽くした老後を生き抜いたと言っていいのではないか。