男装へと着替えたワケ
とはいえ、ジャンヌは言葉だけを武器に、シャルルに会おうとしたわけではない。貧しい女性の服を脱ぎ捨て、黒の股引き、上着、頭巾と男物の衣服を身にまとうようになる。
「農民の娘」という身分から脱却することで、門前払いにされないようにしたのである。その後、ジャンヌは男装を突き通すことになる。
隊長から得た招待状や、村の少女だと思わせない男装、それに加えて、中世のヨーロッパでは予言者の啓示が重視されたことも、追い風となった。
ジャンヌはシノン城で、王太子のシャルルと面会を果たす。
王太子の試練を見事にクリア
居合わせた者の証言によると、面会時にジャンヌが発した言葉は次のようなものだった。
「いとも貴き王太子殿下、あなた様と王国とをお救い申し上げるべく、神さまよりつかわされてやって参りました」
このときにシャルルは一つの試験を課している。数多くの諸侯を同席させ、自分よりも美しく装いを施すように指示していたのである。
だが、ジャンヌは顔を知らないにもかかわらず、王太子のほうをきちんと見て話しかけた。こんな証言も残されている。
「彼女がやって来そうになると、シャルルは他の人々の列の外側に身を退いた。にもかかわらずジャンヌは彼を認めるとお辞儀をしたうえで、長い間彼と話し込んだ。彼女と話をした後ではシャルルの表情は生き生きとして見えた」
用心深いシャルルは、面会後、都市ポワティエにて、多くの判事たちによる、ジャンヌへの尋問を行うことにした。冒頭で紹介した「声」については、このときにジャンヌの口から語られたものである。
尋問で「神を信じているか」と尋ねられたジャンヌは「貴方さまよりもずっと」と答えたというから、なかなかウィットに富んでいる。そして、こう訴えたのである。
「とにかくオルレアンにお連れください。私が神に送られてきたというしるしをお目にかけましょう」
ジャンヌの提案が巧みなのは「次のステージでの成功によって証明する」と切り抜けることで、判断する相手に責任を背負わせないようにしているところだ。合わせてジャンヌは、兵力を与えてくれるように願い出ている。
とうとうジャンヌは「オルレアン解放」という任務を遂行すべく、出発することとなった。
決死の短期決戦
ジャンヌの一行はロワール川を渡ると、フランス救援軍の一員として、4月27日にオルレアンへ進軍を開始。5月4日には、救援軍がサン・ルー砦を落とし、オルレアンに入城することができた。
しかし、翌日に開かれた軍議に、ジャンヌの姿はなかった。さらに翌日の6日には、オーギュスタン砦を落とすも、やはりジャンヌは軍議に参加していない。
ジャンヌを信用しないフランス軍の隊長によって、軍議から外されていたのである。
さすがに戦場となれば、言葉でいくら信念を語っても、聞く耳を持つ者はいないだろう。ジャンヌは行動に移すことを決意する。
前夜に隊長たちが「守備に専念する」と決定したにもかかわらず、ジャンヌはトゥーレル砦を攻撃。敵の矢で負傷しながらも、兵士たちを鼓舞して、砦の奪取に成功している。
イングランド軍が兵力を分散させるなか、ジャンヌは全力で一つひとつの砦を奪うという、短期決戦を仕掛けたのが功を奏したようだ。
シャルル7世の聖別式を実現
ジャンヌが奮闘した結果、イングランド軍は数百人もの犠牲者を出して、オルレアンから撤退する。フランス軍は反撃を開始することとなった。
ジャンヌはランスへと進撃。ランス大聖堂にてシャルル7世の聖別式を実現させている。功労者のジャンヌには、貴族身分と紋章が与えられたという。
自分の信念を語り、キーパーソンを次々と巻き込みながら、正念場では自ら先頭に立つことで、周囲を鼓舞したジャンヌ。結果の伴う行動によって、自身の信念が揺るぎないことを証明し、伝説を残すこととなった。
人生の暗転と異端裁判
しかし、大きな成功を残したあとに、自分の人生をどう着地させるかは意外と難しい。
「ますます高まる周囲の期待に応え続ける」という生き方を選びがちだが、高くなる一方のハードルを飛び越え続けるのは、容易ではない。
ジャンヌもまた、オルレアン奪回を成し遂げたあと、その勢いは衰えていく。パリ攻略を目標とするが、ジャンヌ自身が負傷して攻撃は失敗。その後、フランスが、イングランドとブルゴーニュ公国の連合軍と戦ったコンピエーニュ包囲戦に参加すると、ジャンヌはブルゴーニュ派に捕縛されてしまう。
ブルゴーニュ公はジャンヌを捕らえたことについて、次のように手紙で書いて、各方面へと送っている。
「この女のすることに従ったり好意的だったりしたあらゆる者の誤りやバカげた確信が知れ渡るだろう」
パリ大学神学部は、ジャンヌに異端の嫌疑をかけて、宗教裁判を要求。イングランド側がジャンヌの身柄を引き取って、ルーアンで異端裁判が行われることとなった。