そもそも、公孫氏が邪馬台国など倭人諸国とどういう関係であったかは不明である。なにしろ、魏呉蜀と違い、正式の王朝としては後世、認められなかったので、後継王朝による正史が編纂されていないのである。

 ただ、常識的には、半世紀近く遼寧省から朝鮮半島北部を支配していた公孫氏と倭人たちが没交渉で、これが滅びた途端に魏と接触したというのは考えにくく、朝貢するなどなんらかの外交関係があったとみる方が自然だ。つまり、公孫氏と倭人諸国の交流があったが公孫氏の滅亡で記録が残らなかったと考えれば「空白の2世紀」が埋まるのである。

 その後、邪馬台国と魏およびそれを継承した西晋の交流は、壱与女王が266年に晋の武帝に遣使するまで続き、その後、途切れた。九州のどこかにあったであろう邪馬台国は滅びたか、もしくは、北九州諸国連合の盟主としての地位を失った。また、楽浪郡や帯方郡は高句麗の圧力を受け、313年には制圧されたし、316年には西晋が滅び、翌年に南京で華南のみを領土とする東晋が建国され、華北は大混乱になった。

 日本では私の推定では340年代あたりに北九州諸国の大和朝廷への服属や半島進出が始まり、半島の小国家群は地元勢力の中から台頭してきた百済や新羅、北から南下する高句麗、渡海して勢力を拡大する倭国(大和朝廷)の「四つどもえ」の戦乱に翻弄された。

 そのなかで412年に仁徳天皇とみられる倭王讃からの遣使が東晋に派遣されてからしばらくの間、大和朝廷は朝鮮半島の領有を巡る高句麗との争いで支持を取り付けるべく、南朝と接触した。

公孫淵を初代とすれば
29代目となる赤染衛門

 公孫氏が滅びた後、その子孫は百済に住んでいたが、推古天皇の時に、公孫淵から22代目の比善那が日本に帰化し、その子の眞高が赤染造を名乗った。河内国大県郡を主な根拠地とし、その地には常世岐姫神社(大阪府八尾市)が今もある。染色を得意としていたらしい。

 その孫の徳臣は壬申の乱で大海人皇子の側で活躍し、その孫の廣足からは常世連を名乗るようになった。さらに6代後の筑後介節安は赤染に復帰し、その子である赤染時用の娘が赤染衛門である。衛門は父の官名から取られている。公孫淵を初代にすると、29代目である。

 文章博士の大江匡衡と結婚し、インテリ夫妻として知られた。ふたりの歌は、百人一首にも入っている。

 赤染衛門の歌は「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」で、「あなたが来ないと知っていたら、さっさと寝ていたのに、あなたを待っているうちに夜が更けて、明け方に西に傾こうとする月を眺めてしまいました」という意味である。

 赤染衛門は、藤原道長の繁栄を描いた『栄花物語』正編の作者として有力視されている。女性による歴史書の嚆矢で、客観性には乏しいが、文学としては記念碑的な作品だ。

 衛門は夫が尾張守になった時に任地に同行したので、国府があった稲沢市には歌碑がある。2人の子どもを産み、曽孫はやはり百人一首に選ばれている大江匡房である。

 さらに、その曽孫が源頼朝に仕えた大江広元であって、その子孫が長州藩主家の毛利氏である。また、公家出身の北小路子爵家、徳川譜代筆頭の酒井氏、長州藩家老で維新後に男爵となった福原氏も、大江家の分家だといわれている。

(評論家 八幡和郎)