食事は、外食か弁当ばかり。家族に任せっぱなし。いざ作っても、正解がわからない……。便利な時代になろうと、現代人の料理の悩みは尽きない。
「少ない材料で作れる」「時短」「ボリューム満点」と3拍子そろったイタリア料理こそ、自炊の突破口だと提案するのが『プロの味が最速でつくれる!落合式イタリアン』。本書は、イタリア料理界のレジェンド・落合務氏の初自炊本だ。厨房だけでなく、自宅の自炊生活を経て辿り着いた、究極の最小限レシピが凝縮している。料理人人生60年の今、「こだわりは手放した」と語る落合シェフの原点とは? 修業時代の半生コラムをお届けする。

苦境でもポジティブ! 落合務シェフに学ぶ、感じのいい「機転力」Photo: Adobe Stock

料理を志したきっかけ

 中学生のとき。父親と家の近所の中華そば屋へ行って、店の親父がチャーハンを作る手際のよさに目が釘づけになった。

 トントンとねぎを刻む小気味のいいリズム。中華鍋をふるうたびに、米粒がパラリと宙を舞い、具と飯が混ざり合って鍋に戻る。まるで手品のようで、その調理のシーンが目に焼きついてしまった。

 僕は東京都足立区本木の庶民的な下町で育った。メッキ工場を営んでいた祖父の羽振りがよかったので、有名進学塾に通わされて、大学までエスカレーター式の私立中学に進み、一人息子だし、家族みんなからエリートコースを進むことが期待されていた。

 ところが祖父が事業に失敗すると、生活が一変。家のゴタゴタや、肉親の死が続いて勉強する気力が失せてしまい、高校一年で中退して、料理の道に進むことにした。

最初はフランス料理がやりたかった

 知人の紹介で入ったレストランなどで働くうちに、フランス料理に興味を持ち、「ホテルニューオータニ」に入社したのが19歳のとき。

 フランスへ渡って料理を基礎から学びたいと思い、渡航費を稼ぐために20代半ばで給料のよかった「トップス」に移った。そこで恩師と出会った。社長の桂洋二郎さんだ。

 桂さんはその頃、アメリカンスタイルのレストラン「トップス」のほかに、高級日本料理店「ざくろ」など多くの店を経営し、お菓子やカレーの製造工場も持っていたので、600人ぐらいの従業員を抱える企業の社長だった。

 入社2年目に「トップス」の厨房の二番手になった。でもやっぱりフランス料理をやりたくて、会社に辞めたいと言った。すると、一社員の立場では滅多に会えない桂社長が出てきて、「落合君、辞めるのは思いとどまってくれ」と言われた。

 それで辞めずに働いて、1年ぐらい経った頃かな、桂さんに呼ばれて行くと、「落合君、フランス料理をやりたかったんだろ。フランスへ行ってこい」って。1か月ぐらいフランスへ行って勉強してこい、というわけだ。

人生を変えた、社長とのスゴい会話

 フランスへ行って、ついでにイタリアとスペインにもちょっとだけ寄って帰国すると、すぐに桂社長に呼ばれた。「どうだった?」と聞くから、「もう最高でした、フランス」と答えると、「イタリアにも行ったんだろ? イタリアはどうだった?」って。

 正直なところ僕にはイタリアはいまいちで、料理は素朴すぎるし、サービスもあってないような感じで、大したことないなと思っていた。

 でも会社のお金で行かせてもらっていたから「あ、すごくよかったです」と言うと、「そうだろ! よかっただろう、イタリア」って、桂さんの反応から彼がイタリアにすごく好感を持っているのがわかった。そこで機転を利かせるのが僕という人間。

「そうですね。フレンドリーなサービスと、食材にあまり手をかけていないっていうんですかね、素材を生かした料理、あれがいいです」と調子のいいことを言ったら……。

 これが人生の分岐点になった。

苦境でもポジティブ! 落合務シェフに学ぶ、感じのいい「機転力」コック見習いになった17歳の頃
苦境でもポジティブ! 落合務シェフに学ぶ、感じのいい「機転力」「ホテルニューオータニ」での修業時代(左から2人目)。20歳

(本稿は書籍『プロの味が最速でつくれる! 落合式イタリアン』の一部抜粋・編集したものです)