成田氏を黙らせ脅す自由はあるのか?
勝手な「投書階級」に排除の思想

 成田氏は法を犯したわけではないし、実際に誰か高齢者を自決に追い込んだわけでもない。あくまで学者として自分の考えを世に広めただけだ。そのことについて、我々のような非インテリの一般市民が「先生、それは違うんじゃないですかね」と批判をする自由があるように、成田氏も「高齢者は集団自決してもらいたい」と言い続ける自由もある。

 だから、成田氏を黙らせるために今回のようにSNSでプレッシャーをかけて仕事を奪ったり、「成田氏を起用するとひどい目に遭うぞ」と脅してまわるのは、正しいことだと思えない。むしろ、「みんなのため」」「理想の社会」を掲げながら、異なる価値観を持つ個人を抹殺していく、ファシズム的な思想のように感じてしまう。

 なぜかというと今回、SNS不買運動をされている方たちの主張や立ち振る舞いが、戦時中の「投書階級」と妙に重なるからだ。

 成田氏が「メタファー」として持ち出した「集団自決」という悲劇が、実際に戦場などで無数に行われたちょっと前の日本では、新聞やラジオで不適切な記事や音楽が流れるたびに「けしからん」と投書をして、取り下げや変更をさせる「投書階級」と呼ばれる人たちがたくさんいた。

 彼らは「日本のため」「社会のため」「みんなのため」と次から次へとメディアに登場する「不適切」を狩りまくった。企業の広告に怒り、テレビドラマのセリフに不快になり、「あいつを降板させるように局に言え!」とCM出稿企業にクレームを入れるSNSの人たちとまったく同じことを、戦時中の「正義の愛国日本人」もやっていたというわけだ。

 学習院大学・井上寿一教授の《軍部の検閲より怖かった「戦前のツイ民」投書階級の猛威》(プレジデントオンライン、20年6月19日)によれば、彼らの「世論誘導力」はすさまじいものがあったという。

《「投書階級」の影響力は強かった。たとえば1938(昭和13)年のラジオの聴取者の投書は約2万4000件だった。ラジオ局の番組編成と放送の担当者は、これらの投書を一件ずつ閲覧して、実行可能であればできるだけ番組に反映させることになっていた。》

 よく映画やドラマでは、戦時中の娯楽や新聞・雑誌を軍が検閲するという描写がお約束だが、近年の研究では必ずしもそうではないことが明らかになっている。実際は「投書階級」の主張を、メディアが素直に反映したり、「投書階級」のバッシングを受けて検閲が動くことがかなりあった。

 もちろん、「投書階級」の中には現代のネットの誹謗中傷にも通じる理不尽なクレームも多くあった。例えば、西洋クラシックを流すと、「不愉快」「ガヤガヤうるさくて閉口しました」とボロカスにこき下して中止を求める一方で、同じ西洋の楽器を用いても軍歌や愛国歌ならば「素晴らしい!」「感動しました」と言う。ラジオ局としても《戦時下に「日本精神」を掲げて非難する相手には、どうしようもなかった》(同上)のである。

「戦時中」というと、現代人は自分たちには関係がない世界と思いがちだが、戦時中を生きていた人たちが戦後の日本社会をつくり、子どもたちを教育している。つまり、戦時中の日本人の常識や価値観は敗戦でリセットされたわけではなく、現代までずっと継続しているのだ。実際、今回のキリンビールの対応も一言で言えば、こうなるだろう。

「コンプライアンスの時代、人権を掲げて非難する相手にはどうしようもなかった」

 成田氏の「集団自決発言」が戦時中の優生思想につながるように、SNSの不買運動も戦時中の「投書階級」と変わらない。ともに、根底には「日本のためには邪魔者は消えろ」という排除の思想がある。

 成田氏の発言が人権を軽視しているように感じることには異論がない。しかし、だからといって、そこで成田氏を排除してしまうのも、人権を軽視していることではないのか。

 謝罪だ、不買だ、訴訟だ、ということも世の中には確かに必要だ。しかし、相手を屈服させたり、相手から何かを奪ったりするだけででは、そこには遺恨が残り、社会の「分断」が進んでいくだけだ。

 成田氏の「集団自決発言」をタブー視して社会から葬れば、同じく社会に居場所がない人たちが水面下で熱烈に支持をしてしまう。そうならないために必要なのは、SNSの不買運動などではなく、この社会の中で互いに意見をぶつけ合う「対話」の場ではないのか。

(ノンフィクションライター 窪田順生)

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