(2)生き残り新時代の成功者になるには
「疑う能力」を徹底して磨け
変革期とは、多数派が必ずしも正しくない時代でもあります。昨日と同じ今日が続いてくれる平穏な時期は、多数派がこれまで進めてきた物事の扱い方、考え方、選択が通用することが多く、何も考えずに集団の誰かについていくことでそれほど大きな失敗もなく、平均的な幸せがある意味で約束されていた時代だと考えることができます。
しかし変革期はそうはいきません。変革期は、むしろ多数派が間違っている可能性が高まる時代だからです。
したがって、何も考えずに「なんとなく周囲と同じ行動をする」ことのリスクが段階的に高まっていくことになります。時代の曲がり角は、自分のアタマを使わないことがそのまま人生の大きなリスクとなってしまうのです。諭吉は『学問のすすめ』第15編で、疑う能力を高めること、そして疑った上での判断力の重要性を説いています。
1. 従来の学説、常識、社会通念などの限定枠
ガリレオやニュートンなどの科学者は、従来の学説を疑うことで新たな真理を発見し、社会に大きな恩恵をもたらす文明の進化を成し遂げました。この従来の学説、常識や社会通念を「健全な形で疑う」ことは、新たな可能性を発見するきっかけです(諭吉は宗教改革を成し遂げたマルチン・ルターにも言及している)。
あなたが考えている「現在の限界」は、実は限界でもなんでもなく、極めて底の浅い思い込みに過ぎないかもしれません。「これ以外に方法はない」と社会が思い込んでいる限定枠も、実際はその思い込みが生み出している限界であって、より素晴らしい選択肢をたくさんつくり出す努力を怠っているだけかもしれないのです。社会を進歩させる、科学技術の新しい定理を発見する、個人の人生の限界を押し広げるためにも「健全な疑う能力」を高めることは、極めて重要になるのです。
2. 社会変化への不安から、新しいものを盲信する「開化先生」の言説
時代が移り変わり始めると、なんでも新しいものに飛びつき、新しいものを疑わずに盲信し、古いものを何でもダメなものだと決めつける軽率な「開化先生」がたくさん出現すると、『学問のすすめ』は指摘します。
本来であれば、物事は良し悪しを慎重に吟味して、時間をかけて正しい判断を下すべきなのに、これらの「開化先生」は古いものを信じていたのと同様に、新しいというだけで盲信してしまう軽率な人たちで、時代がどれだけ移り変わっても、自分の判断力をまったく向上させず、賢くなることもありません。
このような人は古いモノの中にあった「本当は優れていたもの」を簡単に捨ててしまい、実は役に立たない新しいモノに飛びついて有頂天になっていたりします。現代日本でも、盲目的に新しいモノ、海外の習慣や製品を礼賛する傾向が私たちの周囲に溢れていないでしょうか。私たちは正しい判断をできているでしょうか。
『学問のすすめ』は、このように新しいものに盲目的に飛びついて、当時外国のものが何でも優れていると論じ、日本のものが何でも時代遅れであると考えた流行モノが大好きな軽薄な人間を、疑う能力と判断力に欠けた人物の典型であるとしています。真の学問とは、健全な疑う能力と正しい判断力を養うためのものだと諭吉は喝破していたのです。