妻の長兄は栃木の米農家を継いで、米作りに精を出していた。あわてず騒がず、コントロールすることのできない相手に我慢する人の顔だ。

 そして、もちろん妻の顔も、言われてみれば幾分かはそのような顔だった。

前近代的な風習が残っていた妻の故郷
土葬や葬儀中に小銭を撒く習わしも

 妻の語る故郷、そして田舎は前近代的な要素を多分に持っていた。

 妻に祖父の死と葬儀の話を何度か聞いたことがある。妻の祖父はしばらく寝たきりになったのち、1973年に75歳で死を迎えたという。

 当時の70代の死は天寿を全うしたと思われたらしい。死が確認され、親戚が呼ばれると、死者を裸にして関係者全員で身体を水で清めたとのことだった。

 そして、自宅で通夜と葬式を行い、棺をリヤカーに乗せ、関係者が行列を作り、家族が幟のようなものを持って自宅から家の墓地まで村を通って練り歩き、周囲に人が集まっていると、親族が小銭をそちらに向けて撒き、村の人は、天寿を全うした人の葬儀で小銭を拾うと縁起がよいということで競って拾ったらしい。

 そして、木々に囲まれた墓場に着くと土葬をし、遺体を土に返すのだと語っていた。そのような死の儀式を妻は何度か話した。

 そのうち、誰か親族が死んだら、私たちもそのような儀式に加わることになると妻は話していたが、さすがに農村地帯でも土俗的な葬儀の風習はなくなって葬儀屋が仕切って遺体は火葬にするようになったようだった。

 妻は自分や私はもちろん、子どもたちの誕生日も、そしてクリスマスもほとんど祝わなかったが、お盆や正月などはほかの家よりも大事にした。

 ゆず湯や草餅、七草がゆなど、季節につながる伝統行事の品も自分で作ったり購入したりしていた。妻は大地と密着した思考をしていた。

「人間も死後、土にかえる」
農家の生活で育まれた人生観

 妻は田舎者であるからこそ、菫(編集部注/筆者は、夏目漱石の句『菫ほど小さき人に生まれたし』が、亡き妻の生き方を表していると感じている)のような意識を持つことができたのだろう。できた、というよりも自然とそのような思考をしたのだろう。

 妻の兄がそうであったように、農民は自分ではどうにもできない自然の中で生活を営む。天候のせいで作物が大打撃を受ける。それを耐え忍ぶ。そうしながら、翌年の春に種をまき、秋になって収穫する。それを繰り返す。