作物だけでなく、多くの木々が裸木になり、草木は枯れる。そして、春になると途端に草木が芽生え、緑が鮮やかになり、花が咲く。まさに大地が生き返る。

 偉大なルーマニアの神話学者のミルチャ・エリアーデが語っている通り、人間も死後、土にかえるという意識を抱いていたかもしれない。

 そして、春になって再び緑があふれるため、大地によって形を変えて再生するという感覚を抱いていたのかもしれない。

 エリアーデは『豊饒と再生』の中で次のように書いている。

 人間は、同じ植物の子宮からのエネルギーが単に放射されただけのものにすぎず、人間とは、植物のレベルでの過剰がたえずその出現を促している、かりそめの形態なのである。「実在」と「力」の基盤も源泉も人間にはなく、植物にこそ存するのである。人間は、植物の新たな存在様態の束の間のあらわれにほかならない。人間は死ぬときに、換言すれば、人間の条件を放棄するときに「種子」または「精霊」の状態で、樹木にかえる。事実、これらの具体的な表現形態は、レベルの変換のみを表しているのである。人間は宇宙の母胎に還帰し、再び種子の状態を獲得し、再び胚種となる。死とは、普遍的生命の源泉と再び接触することである。

 もちろん、妻自身は自分が生まれ変わるとか、生は回帰するといったようには思っていなかった。それどころかそれを強く否定していた。

 しかし、農家出身の妻はきっと植物の生命は種として回帰していくという価値観を無意識のうちに受け取っていただろう。それが妻の考え方に大きく影響を及ぼしていたといえそうだ。

 今の私たちがこのような農村特有の思想を自然に身につけるのは難しい。いや、妻に劣らぬ田舎者である私には、どうにかまねできないでもないが、そうでない方には、なかなか難しいだろう。

書影『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)
樋口裕一 著

 しかし、妻がこのような考えを子どものころから抱くようになっていたことを認識して、少しそのような思想を追体験してみるのも、あっぱれな死を迎えるのに必要なのかもしれない。

 田園風景を映像で見たり、前近代の呪術的な物語を読むことによって、妻の子どものころの漠然とした感覚を共有することはできるだろう。

 いや、それ以前に、高度に情報化され、都市化された現在、そのような価値観に触れるのは、心の癒しとして決して無駄なことではないと思うのだ。