著者の妻は余命宣告を粛々と受け入れ、うろたえることなく旅立った。見事な最期には、夫である著者も驚いたが、その強さはどこから来たのだろうか。本稿は、樋口裕一『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
九州の田園地帯で育った著者が
都会で隠し続けた田舎者意識
実は私も妻に負けないほどの田舎者だ。私は大分県日田市出身。実際に生まれたのは母の実家であり、そこは今は日田市に編入されているが、当時は日田郡大鶴村だった。
山あいの寒村だ。5歳で日田市を離れて、同じ大分県内の中津市に移った。そこもまた田園地帯で、田んぼや畑に囲まれ、魚を捕ったり昆虫を追いかけたりして遊んだ。そして、10歳からは大分市で暮らした。
東京から見れば日田も中津も大分も同じような田舎町なのだが、中に住んでいる人間にはそこに階層がある。私はだんだんと少しずつ大きな町に移動した。つまり、私はずっと田舎者意識を持っていた。
大学入学とともに東京に出て、そのままその周辺で暮らしているが、田舎言葉が出るたびに恥ずかしく思った。田舎者とばれないようにと気を付けながら生きてきた。
大学時代、仕送りの中に、当時、九州以外ではとっくに使われていなかった百円札が混じっていて、それを使うのに赤面していた。田舎を恥じ、そこから逃れようとしていた。
妻のあまりにあっぱれな田舎者ぶり
訛りが出ても少しも恥じない強さ
ところが、妻は、私以上の田舎で暮らし、いつまでも田舎言葉が抜けなかったが、それを少しも恥じることはなかった。
なんという田舎者だ!というのがその時の妻に対する私の印象だった。大学の4年間、きっとお洒落な東京の友達とお洒落なところに行って遊んだりもしなかったのだろう。
尋ねてみると、姉が東京の人と結婚して多摩地区で暮らしており、広い家なので、大学の4年間、そこに住まわせてもらっていたという。
姉と栃木弁で話しているために、まだ訛りが抜けていないのだろうと推測できた。私が田舎者であることを恥じていたことが滑稽だと思い知らされるほどのあっぱれな田舎者だった。
結婚することになったのは、私が妻のあまりにあっぱれな田舎者ぶりに感服したからといっても間違いないと思う。
妻は、故郷だけでなく、農村に親しみを抱いていた。新婚旅行に行った時も、列車から見えるヨーロッパの農作物に関心を持ち、その後も遠出をともにするごとに、車窓から見える田畑の作物に目をやった。
テレビで農民が出てくると、それが日本人であっても西洋人やアジア人であっても、しばしば感動したように、「この人たちはうちのお兄さんと同じ顔をしてる。自然を相手にしている人特有の顔だ」と語っていた。