「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

三流の管理職は「優れた前任者」と自分を比べて悩んでしまう。では、超一流の管理職は?Photo: Adobe Stock

リーダーの支えが
崩れた途端、落ち目に……

毛利元就(1497~1571年)は中国地方の戦国大名。当初は安芸国(広島西部)の小領主であったが、子どもたちを安芸国の領主(小早川氏・吉川氏)に養子として送り込み、両家をとり込むことなどで、戦国大名として成長する。また、初めは山陰の尼子氏、後には山口の大内氏という大大名の配下に属し、保護を受ける。大内氏の当主、大内義隆(1507~51年)がその家臣、陶晴賢(1521~55年)のクーデターにより殺害されると、毛利元就は陶晴賢を厳島(宮島)に誘い出し、厳島の戦い(1555年)で勝利。その勢いで大内氏を滅ぼした。その後、尼子氏との戦いでも勝利し、毛利氏は中国地方10か国を支配する大大名となる。

吉川元春、小早川隆景の2人が亡くなってから、毛利家は落ち目になってしまいます。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)において、毛利輝元は石田三成側である西軍の総大将となります。

ところが、当時の吉川家・小早川家の両当主からの協力が得られませんでした。

120万石の大大名から
36万石の大名に転落

吉川家は、徳川家康と内通していました。家康が勝利したとしても、毛利家が存続するようにという考えからではありましたが、毛利軍が関ヶ原の戦いに参加することを妨害したのです。

また、小早川家の当主、小早川秀秋(1582~1602年)が、関ヶ原の戦いの終盤に西軍を裏切ったことは有名です。

この結果、西軍は敗北し、毛利家は中国地方を支配する120万石の大大名から、長州(山口)のみを支配する36万石の大名に転落してしまったのです。

リーダーの引き継ぎへの
不安とやりにくさ

この結末は、毛利元就が築いた「毛利両川体制」が、元就死後の毛利家をいかに支えていたのかを逆説的に証明しています。

どんなリーダーであっても、いつかは次の人へ引き継がなくてはいけません。

その引き継ぎのとき、現在のリーダーが優秀で、メンバーを引っ張っていく求心力があればあるほど、後任のリーダーは不安も大きく、やりにくさを感じるものです。

前任者と比較すると
気が重たくなる……

「自分はあの人と同じようにできるのだろうか」とプレッシャーを感じ、「部下たちは、何かと前任の優秀なリーダーと比較するだろう」と気が重たくなるかもしれません。

これは経営者から管理職、チームリーダー、それにバイトリーダーに至るまで、共通していることです。

しかし、後任のリーダーは、必ずしも前任のリーダーと同じカリスマ性やスタイルを引き継ぐ必要はないのです。

優れたリーダーは
分担して引き継ぐ

前任のリーダーが果たした役割をすべて1人で引き継ぐのではなく、幹部となる部下と分担をすることもできます。

私はコンサルティングの現場で、この方式を「マネジメントチーム」と呼んで推奨しています。

実際、毛利元就の死後、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景で役割分担して承継した「毛利両川体制」は、戦国時代のマネジメントチームと評価できます。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。