「与えられる」ことに
慣れてはいけない

「自分で自分を楽しませる」が基本の私には、人に楽しませてもらうという発想がない。

 だからこそ、スポーツ選手がインタビューで「感動を与えたい」などと発言していると、おやっと思う。

 感動は人に与えられるものではなく、自分が自然に感じるものだ。自分の内側から湧き上がってくる感情を、他人がコントロールすることはできないし、してほしくもない。「感動を与えたい」という表現には、厚かましさを感じてしまう。

 選手は自分のためにプレーをしてほしい。自分が楽しむため、自分が勝つために必死に戦う姿に、見る者は勝手に感動するのだ。

 しかし世の中には、「感動を与えてくれてありがとう!」と感謝している人も少なくない。これは危ういことだ。スポーツ選手のような選ばれし人が感動を与え、一般の人々がそれをありがたく受け取る、という関係性は危うい。

 たかがスポーツではない。「与える-与えられる」の関係性に慣れると、大衆は誰かにコントロールされることに疑問を覚えず、受け身になっていく。

 国のリーダーたちに対しても、「安心させてもらおう、指示を出してもらおう」という姿勢になっていく。その先に明るい未来があるはずがない。

 自分で自分を感動させ、自分で自分を楽しませる。意思も感情も、自分から出てくるものだと心得ておきたい。

 誰かに楽しませてもらおうなどと考えていると、自分を失くしていく上に、そうならなかったときに他人に対して不平や不満が出る。家族や配偶者にイライラする。

 誰も楽しませてくれないし、感動もさせてくれない。守ってもくれないし、安心もさせてくれない。だからこそ人は自分勝手に生きるしかないのだし、それが自分のためになるのだ。

 手始めに、毎日着る服で自分を喜ばせてみたらどうか。

 日本には「よそ行き」という言葉があり、普段着より、よそ行きのほうが大事だという風潮がある。だが私は反対で、普段着こそ大事だと思っている。普段の積み重ねがその人を作り上げていくからだ。

 とはいえ大袈裟に考える必要はない。

 いま持っている服に、一つブローチをつけるだけでもスカーフを巻くだけでも気分が変わる。私は人があまり持っていない、ちょっと珍しいブローチが好きだ。子どもの手のひらほどの大きさのものや、蝉や蝶など昆虫のモチーフ、アルマーニの蜘蛛のモチーフのものなど、気に入ったものを集めている。

 街ですれ違った人に「あら、ブローチ素敵ですね」と、声をかけられることがある。自分が好きで楽しんでいるものが、たまたま誰かに伝わるくらいがちょうどいい。

書影『結婚しても一人』(光文社新書)『結婚しても一人』(光文社新書)
下重暁子 著

 服装は自己表現。普段着こそ重要。私はそうした考えを昔から持っていた。

 高校時代、通っている学校の背広型の制服がダサくて気に入らなかった私は、自分でデザインして作ったセーラ服型の制服を着て学校に通っていた。先生に注意はされたが、卒業までそれで通した。

 当時の教師は、異端の芽を摘まなかった。異端から、他にはない個性が育ってくることを知っていた。

 翻っていまはどうだろう。2023年3月、髪型が校則違反だからと、学生を卒業式に出席させなかった高校の対応が問題になった。

 この国のさまざまな局面で、同調圧力が強まっているように感じる。その結果、個の力が弱まっているのではないか。