相手が怒っていても自分は怒らず、権力争いから降りると決めておく。権力争いから降りるというのは、正しさに固執しないということである。たとえ感情的にならなくても、自分は正しいと思っていると権力争いになる。

 もちろん、自分が正しく相手が間違っていることはある。しかし、権力争いをしている人にとっては、正しさ自体ではなく、「私が」正しいことが重要なので、たとえ自分が間違っていて相手が正しいことが明らかになったとしても、自分の間違いを認めることはないだろう。

〈お前が怒りを爆発させたとしても、それでも彼らは同じことをするだろう〉(前掲書)

 怒りを爆発させるとどうなるか。アドラーは、怒りはtrennender Affekt, disjunctive feelingであるといっている(『性格の心理学』)。これは「人と人を引き離す情動」という意味である。

 我々の犯す誤りは、怒ることで相手との距離を遠くし、その上で問題を解決しようとすることである。対人関係の心理的な距離が遠ければ、たとえ相手がいっていることが正しくても受け入れようとしないだろう。

 どうすれば、問題を解決できるだろうか。アウレリウスは次のようにいう。

〈怒らずに、教え、そして示せ〉(『自省録』)

 相手の言動が間違っていれば、それを指摘するしかない。その際、相手を責めてはいけない。相手ではなく、相手の「言動」が間違っていると指摘するのである。

 相手が誤っていれば指摘することは必要だが、「怒らずに」そうするのが難しいという人はいるかもしれない。指摘する前に、指摘してもいいかと断ったほうがいいかもしれない。そこまでして伝える必要があるかどうかは、相手の人生にどれほど関心を持っているかによる。

 いつまでも親が子どもの人生に干渉することは望ましいことだとは思わないが、親が子どもの人生に親としてというよりは人間として関心を持つのであれば、自分の考えを伝えることはできる。

 それができるためにも、子どもが本来自分で解決するしかないことに、親が土足で踏み込み、親の価値観と違うからといって止めるようなことがあってはならない。