「子育て」や「介護」といった、一見時間も労力も取られる大変な仕事は、利己的な考え方でみると「見返り」のないしんどい作業に感じる。しかし、本当にそうなのだろうか?「与えること」について説いた大江健三郎らの言葉は、「嫌われる勇気」の著者の心にどう響いたのか。本稿は、岸見一郎『悩める時の百冊百話 人生を救うあのセリフ、この思索』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
利己主義者は遠い未来まで
「勘定」を持ちこせない
三木は、ギブ・アンド・テイクの原則は「期待の原則」(前掲書)であるといっている。与えたら返ってくることもあれば、返ってこないこともある。まれに返ってこない場合があっても、そんなこともあるくらいに思える。これが「期待の原則」である。
そうは思えず、与えても返ってこなければ損だと思って与えようとしない利己主義者は、ギブ・アンド・テイクの原則を「打算の原則」(前掲書)として考えているのである。
純粋な利己主義者はほとんどいないにしても、打算的な人は多い。打算的な人は、他の人に何かしたらそれ相応の見返りがあるはずだと考えて、その見返りにふさわしいことをしない人がいれば怒り出す。
しかし、何かしても見返りのある場合もあればない場合もある。それは当然だと思うほうが健全なのであって、すべてを打算で割り切ろうとするのは無理がある。
それでは、打算的にならないためにはどう考えればいいのか。三木は「受取勘定」という言葉を使う。受取勘定というのは、与えたことに対して受け取れると期待できる見返りのことである。利己主義者は遠い未来まで勘定を持ちこせない。普通の人なら金は天下のまわりものとか、もしくは、情けは人の為ならずとか思って受取勘定を先延ばしできるのに、利己主義者はそうすることができないのである。
子育てや介護を打算の原則で考えると、つらいものになる。与えても決して返ってこない、与えたら損をすると考えたら子育ても介護もできない。だから、返ってくることを一切期待しないというのが、一つの処し方ではある。だが、本当に返ってこないのだろうか。