太平洋戦争でも、このあたりまでは連戦連勝、日本軍はフィリピン、インドネシア、ビルマからグアムまで、広大な版図を手に入れました。が、好調だったのは開戦100日まで。国内は戦勝ムードで浮かれていましたが、真珠湾の生き残りの米空母が太平洋の島々を奇襲攻撃し続け、東京に奇襲爆撃まで仕掛けます。
海軍が主力空母4隻を失い大敗を喫したミッドウエー海戦は1942年6月。そしてガダルカナル島の敗戦(1943年2月)を経て、あとは敗北への道をまっしぐらに突き進みました。同時にドイツもスターリングラードで敗退。ドイツの勝利にすがる戦略はこの時点で希望がなくなりました。
「戦勝」の空気がガラッと変わった
岸田首相の二つの誤算
一方、岸田政権はどうだったのでしょうか。支持率は政権発足時に49%とまあまあでしたが、その後も50%代で安定していました。空気がガラッと変わったのが、安倍晋三元首相が参院選の遊説中に暗殺されたことでした(2022年7月8日)。旧統一協会の被害者による暗殺事件は、当初民主主義への挑戦に対抗する戦い、そして安倍首相憤死への追悼という空気を世の中につくり、岸田政権を後押ししました。しかし、内閣発足後345日に起こったこの事件は、結果として岸田政権に極めて深い傷を残します。
第一は、暗殺者が暴いた自民党と統一協会の黒い関係です。高額な寄付強制への批判で鳴りを潜めていたはずの統一協会が、裏で自民党幹部のほとんどを支援しており、さらに安倍首相自身が協会の機関紙の表紙に出演したり、有力政治家が集会で教祖をたたえる演説をしたりと、その癒着ぶりが明るみに出ました。また、岸田首相は強力な指導力で自民党と統一協会の癒着を完全に絶ち、教団を壊滅に追い込む指導力を発揮することができませんでした。
第二は、岸田総理が独断で決めたと言われる安倍元首相の国葬でした。統一協会問題だけでなく、森友、加計、桜を見る会などの疑惑をたくさん残して退陣した元首相を国会に諮ることなく国葬にしたことも、国民の一部から反発を招いたのです。岸田政権の支持率はここから急落を始め、自民党安倍派のウラガネ問題が告発されると、総理の指導力・決断力には完全にマイナスのイメージがついてしまいました。派閥を解消したり、姑息な解決策を提示したりしましたが、岸田政権への信頼は戻りません。