島には民家も多いため、板を空から落とせない民家のある地域では兵士による地上作戦、つまり板の吊り下げ作業も行われた。

 小笠原にミカンコミバエが侵入したのは1925年頃と言われている。第2次世界大戦中、日本軍は島民全員の立ち退きを命じ、全島が日本軍の基地となっていた。

 敗戦後は米軍と帰島を許可された一部の住民が暮らしていたが、1958年頃から米軍の栽培していたトマトでミバエの被害が大きくなったため、ミカンコミバエの実験的な根絶作戦が開始されたのだった。作戦は2年間続き、ミバエの数は5分の1程度まで減ったが、根絶が達成されないまま、1962年8月に作戦は取りやめとなる。1968年に小笠原諸島は日本に返還され、東京都に編入された。

 小笠原で根絶に失敗したアメリカ政府は、1962年秋からマリアナ諸島のロタ島で新たな根絶作戦を展開した。ロタ島(面積85平方キロ)はグアム島から北に約90キロ離れたところに位置する。再びスタイナー博士を中心に1962年11月から飛行機によるテックス板の投下を、ヘクタールあたり0.5枚、2週間に1度行った。地上でもテックス板を、へクタールあたり0.16枚ずつ吊り下げた。ミカンコミバエがどのように減少するのか、科学的に確認するため、2つの方法が実施された。

 1つ目の方法は、罠で捕れたミカンコミバエの数を数えることだ。博士は、ミカンコミバエを誘引するための罠を独自に作成した。これはスタイナー型罠と呼ばれ、現在まで一貫して採用されている。

 2つ目の方法は、果実の被害調査である。グアバ、マンゴー、パパイアなどの果実を採集し、砂の上に4~5週間ほどおく。なかに幼虫がいれば砂に潜って蛹になるので、それを調べるのだ。ときには果実を割いてなかの幼虫の有無を調べることもある。ミカンコミバエのメスは果実に卵を産み、約1日で卵から孵った幼虫は果実を食いすすんでドロドロにし、7日から2週間ほどかけて蛹になる準備ができる。成熟した幼虫は果実から出て来て、砂のなかに潜り蛹になる。腐敗した果実の臭いで現場は大変だ。

 それでも果実の被害を確実に調査するこの方法は、今でも同じである。ロタ島での駆逐作戦で、根絶を確認するための手法の原型が完成されたと言える。