1822(文政5)年に青山白峰によって書かれた随筆集『明和誌』には、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が始まったのは安永天明期(1772~1789)とあります。

 また、夏だけでなく冬の土用の丑の日にもうなぎを食べる習慣があったとあります。

 季節の変わり目の土用は年4回ありますが、現在はいつの間にやら夏のイメージが定着し、毎年7月になると「土用の丑の日」ののぼりが立ち、うなぎファンならずとも購買意欲がそそられます。

 実際のところ、家庭でのうなぎの蒲焼の購買率は1年の中で7月が最も高く、1世帯当たり年間支出金額に対してうなぎが占める割合を算出した総務省の統計(2002年度)によると、7月は平均23.3%と、突出した数値を記録しています。

 一方、毎年土用の丑の日は休業するうなぎ店もあります。炭焼きの店 うな豊(愛知県名古屋市瑞穂区)の店主服部公司さんは、毎年市内の長楽寺に足を運び、うなぎ供養をしています。

 養殖うなぎがほとんどとなった現在は、夏のうなぎは身がやわらかくあっさり、秋冬のうなぎは皮が締まってうま味が増して脂ののりがよくなります。つまり年間を通して季節ごとにそれぞれのおいしさが味わえる、というのが令和のうなぎ事情なのです。

蒲焼+白飯の「うな丼」は
偶然によって産まれたもの

 文化文政期(1804~1830)には化政文化が花開きます。食文化の面では、現在につながる江戸料理が定着した時代でもあります。その花形は、浮世絵などにも数多く描かれたうなぎの蒲焼です。

 江戸の蒲焼屋の始まりは、元禄時代(1688~1704)に創業したと伝わる上野山下仏店(現在の京成上野駅正面口付近)の「大和屋」だといわれています。蒲焼は酒の肴として提供されていました。酒の飲めない人はご飯の持ち込み可だったようで、そのうち、店も「つけめし」といって蒲焼と一緒に白飯を出すようになります。