森鴎外の娘、小堀杏奴の『晩年の父』には「不忍池にある伊豆榮へも鰻を食べに連れて行ってもらった」と、現在も池之端にある鰻割烹 伊豆榮(東京都台東区上野)に行った思い出が綴られています。
歌人で精神科医の斎藤茂吉も無類のうなぎ好き。花菱(東京都渋谷区道玄坂)を贔屓にし、うなぎの句を多く残していますが、「これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか」と、食べたうなぎの命に思いを寄せており、私など共感できる一句です。
ハイカラな西洋文明の流入にも負けず、江戸前うなぎの変わらぬ人気が窺えます。
うなぎの歴史は波乱万丈
ニホンウナギが絶滅危惧種に
明治以降、現在に至るまでのうなぎの歴史は波乱万丈です。1900年に浜名湖で始まったうなぎの養殖は、1940年頃には出荷量1万トンほどになりますが、太平洋戦争の勃発により急速に衰退してしまいます。戦後の1947(昭和22)年、現在の日本養鰻漁業協同組合連合会の母体となる東海三県養鰻組合連合会が結成され、徐々に復興し始めます。
高度成長期になると各地で治水事業のためにダムや堰などの人口構造物の建設が進み、河川へうなぎが遡上しにくくなり、天然うなぎの漁獲量が激減し始めます。ちょうどその頃、伊勢湾台風の影響をうけた愛知県一色町(現在の西尾市)では、農地が養殖池に転用され、うなぎ養殖の先進地域として養鰻業をリードし始めます。
このころまでは、クロコウナギといわれる15cmほどに成長した子どもうなぎを捕って、露地池で育てる養殖方法でした。ところが、1971(昭和46)年、うなぎ養殖に革命的な出来事が起きます。現在の浜松市に生まれたうなぎ養殖研究者の村松啓次郎は、クロコウナギに成長する前段階のシラスウナギからの養殖に成功したのです。