熊永祥はこれが巨大な脊椎動物の化石らしいと気付き、四川省航空区域地質調査隊に手紙を書いて報告したところ、調査隊員の曽紹良が現場に派遣された。曽紹良は化石を仔細に検討したうえで一部を持ち帰り、中国科学院古脊椎動物・古人類研究所に標本を送って鑑定を依頼する。

 結果、当時はまだ若手の研究者だった董枝明が、これが中国で最初に見つかった良好な状態の首長竜化石であるとして、模式種としてビシャノプリオサウルスと命名。1980年に論文を発表した。なお種小名の「ヨウンギ」(楊氏)は、董枝明の師であり論文発表の前年に亡くなった楊鍾健に捧げる意味で名付けられたものである。

 董枝明はビシャノプリオサウルスの全長を約4メートルと推定し、ジュラ紀前期に生息したとみなした(後年の研究では、おそらく幼い個体だったとみられている)。化石は頭骨が失われ、頸椎も7つしか見つからず、失われた部位も多かったのだが、胴体部分や尾についての保存状況は比較的良好だった。

 ビシャノプリオサウルスの頸椎は横に短く縦に高い形をしており、おそらくプリオサウルス類(首の短い首長竜)であるとみられた。また董枝明は、ビシャノプリオサウルスの肩帯や腰帯の様子は、イギリスのジュラ紀前期の地層から見つかったロマレオサウルスというプリオサウルス類にたいへんよく似ていると考えた。

 また、ビシャノプリオサウルスが見つかったのと同じ年代の四川省の地層からは、1942年に師の楊鍾健が報告したプリオサウルス類の首長竜であるシノプリオサウルス・ウェイユアネンシス(Sinopliosaurus weiyuanensis:威遠中国上龍)や、水棲生活に適応したワニの仲間であるテレオサウルス科の化石が出ている。

 ゆえに董枝明は論文の末尾で、ジュラ紀の四川盆地付近には海溝があったか、もしくは海と接続する巨大な河川が流れていて海棲の爬虫類が海から遡上していたのではないかとする推論を記した。

日本人研究者らの論文をきっかけに
注目集めたビシャノプリオサウルス

 だが、文化大革命の終結からほどない中国古生物研究の復興期に発表された論文は、当初あまり注目を集めなかった。ビシャノプリオサウルスは、中国では恐竜よりもマイナーな生物である首長竜であることもあって、それほど世間で話題になることもなかった。

 だが、今世紀に入りビシャノプリオサウルスに再び光が当たる。しかも、きっかけを作ったのは日本人研究者だった。