ウォール・ストリート・ジャーナル、BBC、タイムズなど各紙で絶賛されているのが『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙』(アンドリュー・ポンチェン著、竹内薫訳)だ。ダークマター、銀河の誕生、ブラックホール、マルチバース…。宇宙はあまりにも広大で、最新の理論や重力波望遠鏡による観察だけでは、そのすべてを見通すことはできない。そこに現れた救世主が「シミュレーション」だ。本書では、若き天才宇宙学者がビックバンから現在まで「ぶっとんだ宇宙の全体像」を提示する。「コンピュータシミュレーションで描かれる宇宙の詳細な歴史と科学者たちの奮闘。科学の魅力を伝える圧巻の一冊野村泰紀(理論物理学者・UCバークレー教授)、「この世はシミュレーション?――コンピュータという箱の中に模擬宇宙を精密に創った研究者だからこそ語れる、生々しい最新宇宙観橋本幸士(理論物理学者・京都大学教授)、「自称世界一のヲタク少年が語る全宇宙シミュレーション。綾なす銀河の網目から生命の起源までを司る、宇宙のダークな謎に迫るスリルあふれる物語全卓樹(理論物理学者、『銀河の片隅で科学夜話』著者)と絶賛されている。本稿では、その内容の一部を特別に掲載する。

「私たちは“現実”を生きているのか?、“シミュレーション”の中で生きているのか?」その可能性は五分五分…若き天才宇宙学者が語る「シミュレーション仮説」の衝撃とはPhoto: Adobe Stock

映画『マトリックス』の衝撃

 一九九九年の春、十五歳になった私は珍しく映画館に足を運び、『マトリックス』という新作映画を観た。

 この映画では、コンピューター・プログラマーが、これまでの人生のすべてが、シミュレーションされた現実の中で起きていたことに気づく。機械がどういうわけか本物の人間をポッドに入れ、配線でつないで、巨大なゲームに組み込んでいたのだ。

 映画ではその後、主人公のネオが、人類を解放して、すべての人を現実世界に戻そうとする少数精鋭のプログラマー集団に加わるまでの姿を描く。

 私たちの経験全体がまやかしだという考え方は、多感な年頃だった私にとって、ひどく不安をかき立てるものであり、この考えに初めて触れた瞬間のことを、今でもはっきりと覚えている。

私たちはシュミレーションの中を生きている?

 現実をそのまま真実と受け取るべきではない、という感覚を私は抱いた。一九五〇年代にコンピュータが広く一般に注目されるようになって以来、SFは、私たちがシミュレーションの中で生きているという考えを弄んできた。

 フレデリック・ポールの短編小説『世界の地下にあるトンネル( 邦題:『幻影の街』一九五五年 )』は、そんな先駆けの一つで、人間の意識が、特設された卓上のミニチュア都市に暮らすロボットに移植される。

 比喩的にも現実的にも、文字どおり小さな世界に閉じ込められた哀れな魂たちは、さまざまな製品の広告効果を試すために、永遠に同じ日をくり返さなければならない。

 毎晩、外の世界のチームがロボットたちの短期記憶を消去し、環境をリセットして、マーケティング業界に、正確に制御可能な試験環境を提供するのだ。

 ダニエル・F・ガロイの小説『シミュラクロン-3( 邦題:『模造世界』一九六四年 )』は、ポールのマーケティング試験のアイデアを、完全にコンピュータの中に置き換え、ある会社が都市全体とその人口のシミュレーションをする様子を描いている。

 もはやミニチュアのセットは必要ない。

 しかし、シミュレーションをする科学者たちは、徐々に自分たちの現実が本当の現実ではないことに気づいてゆく。その世界は「高次の世界」におけるシミュレーションなのだ。

「シミュレーション仮説」はなぜ注目されるのか

 私たち自身の身体と心を含む、すべてのものがコンピュータの中にあるという可能性は「シミュレーション仮説」と呼ばれている。

 シミュレーション仮説に注目しているのは、SF作家だけではない。

 コンピューター科学者のエドワード・フレドキンとコンラッド・ツーゼは、一九五〇年代にこの仮説を重大な可能性として取り上げたし、今世紀初頭には量子物理学者のセス・ロイドが「量子コンピュータ上の宇宙シミュレーションは、宇宙そのものと区別がつかない」と書いている。

 天文学者のニール・ドグラース・タイソン、物理学者のブライアン・グリーン、進化生物学者のリチャード・ドーキンスといった著名人はみな、シミュレーション仮説を真剣に検討している。

 よく調べてみると、この仮説にはさまざまなバリエーションがあり、一人ひとりに独自の見解がある。

 だが、まず手始めに、哲学者のニック・ボストロムから見ていくのが良いだろう。

 彼は二〇〇三年に次のような議論を展開している。 私たちと同じように、未来の文明も宇宙の歴史、あるいはその一部をシミュレーションすることに興味を持っていると仮定する。

 その目的の一つは、太陽系、地球、生命の形成、さらには知的生命体の進化と行動を研究することかもしれない。

 また、コンピュータとシミュレーションが、その能力と精度を増してゆくと仮定する。すると、人類(及び同じように高度な異星人の文明)は、最終的に、知的生命体が生まれて進化する、極度に洗練された「模擬宇宙」を創造することになるだろう。

 ここでオチがつく。

 宇宙の過去と未来全体において、ある一つの文明が、必要な技術水準に達し、一度だけシミュレーションをおこなったとしよう。

私たちは人工知能?

 ここで、あなた自身の存在に関して、二つの可能性がある。

 現実の中で生きているか、あるいは、シミュレーションの中で生きているかだ。

 後者の場合、あなたは人工知能の一種ということになる(これは、意識を持つ人工知能が実現可能であることを仮定しているが、ボストロムはそれは可能だと考えているし、私もセス・ロイドも心の哲学者のデイヴィッド・チャーマーズも同じ考えだ)。

可能性は五分五分

 私たちは現実なのか、シミュレーションされているのか。二つの選択肢があるが、現時点ではそれを区別する方法がないため、私たちがシミュレーションされた存在である可能性は、五分五分だと考えるべきだ。

 ボストロムは実際、私たちが現在の(あまり進んでいない)技術でシミュレーションしているのと同じように、高度な文明の多くも、歴史のさまざまな側面や、物理学法則を変更した場合の影響を探るために、複数のシミュレーションを実行しているかもしれないと言う。

 その場合、生命を宿すシミュレーション宇宙の数は、現実の宇宙の数(それはもちろん一個だ)を上回るだろう。

 たとえば、一〇個の文明が、それぞれの歴史の任意の時点で、一〇回の適切なシミュレーションを実行するならば、あなたが実際の宇宙で生きている可能性は、一〇〇対一となり、勝ち目がなくなる。

 これは推論に推論を重ねた塔であることはおわかりだろう。

 ボストロムは自らの主張を誇張しすぎないよう配慮しており、多くの仮定に議論の余地があることを認めている。

 しかし、目玉となる結論、つまりシミュレーション仮説そのものは、何人もの偉大な頭脳の想像力をかき立ててきた。

 社会は歴史を再現することに、関心を持ち続ける? もちろん。

 コンピュータとシミュレーションは、今後も性能と精度が向上し続ける? 確実に。

 未来の文明は、たった一つのシミュレーションで満足するはずがない? 疑いようがない。

 意識は科学によって理解され、機械の中で再現される? もちろんだ。

 なぜなら、それ以外の結論には、超自然的な心の捉え方が必要となるからだ。これらに反論することは、私たちの起源に対する関心を失うことや、科学計算の進歩の終焉、あるいは文明そのものの終焉につながり、あまりにも悲観的に思われる。

 ボストロムが言わんとしているのは、論理的に見て、私たちは選択を迫られているということだ。私たちの将来に進歩がないことを受け入れるか、突飛なシミュレーション仮説を受け入れるかである。

(本原稿は、アンドリュー・ポンチェン著『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙』〈竹内薫訳〉を編集、抜粋したものです)