将門の怨霊が引き起こした
“祟り”とは?

 塚を建てたことで将門の御霊は、一度は怒りを鎮めたかに思われたが、そうではなかった。周辺地域では何年もの間、水害や水難の類いが頻発し、人々はそれを将門の祟りと捉えて恐れ、震え上がった。

 そこで時の僧侶が板石塔婆を建てて、あらためて供養したのが徳治2(1307)年のこと。この際、近隣の神田明神に将門の霊を祀ったことで、ようやく怨念は鎮まったという。

 ところが大正時代、1923年の関東大震災で塚が倒壊したのを機に、再び将門の怨霊は猛威をふるい始める。具体的には、この地で不自然な事故や災害が相次いだのだ。

 例えば、将門塚の跡地に旧大蔵省が庁舎を建てようとしたところ、工事関係者や省の職員に不幸が相次いだのは有名な話である。そればかりか、できあがった庁舎を雷が直撃したり、時の大臣が急死したりと、不審な事故が立て続く。

 さらに戦後に入ってからも、焼け野原となっていたこの地にGHQが駐車場を造成しようと工事を始めたところ、重機が横転する死亡事故が発生。こうした災いは枚挙にいとまがなく、気がつけば将門は、崇徳上皇と菅原道真と共に「日本三大怨霊」に数えられることとなる。

 こうした一連の奇妙な事故について、単なる都市伝説と疑う向きも多いだろう。実際、筆者も怪談の類いと高をくくっていた。

 しかし、いざ現地を訪ねてみれば、将門塚が祀られた一帯は、日本の経済成長に伴って目覚ましい開発が進められてきたエリアであることがひと目でわかる。これほど地下が高騰した現代において、いまなお将門塚がそのスペースを維持し、静かに鎮座している光景をどう説明するべきか――?

「平将門の首塚」が大手町の超一等地から撤去できない「ゾクリ」とするワケ大手町の一等地に佇むその姿は、いかにも異様だ Photo by S.T.