アテネ五輪出場の松坂大輔選手も、メジャー入り直前まで連載をお願いしていたので、何度か食事会をしました。当時は、まだ横浜高校のメンバーに運転手を頼み、お礼に食事をご馳走していたそうですが、みんなが焼肉を希望するので、「自分も太って困る」と言っていました。自宅に来ると友人たちは、トイレに籠もって「タバコ三昧」。厳しい妻君が怒って追い出すことの繰り返し。「尊敬する選手は?」と聞くと「西武ライオンズの西口文也投手。全然練習しないであの成績なんですよ」。

 松坂投手は天性の素質だけで日本中を圧倒できたので、ここから先が心配になりましたが、案の定メジャーでの活躍は期待ほどではありませんでした。もっと厳しい環境やライバルがいれば、大リーガーとして長続きする選手になっただろうと思います。

昔の中田英寿は今と大違い?
現場に現れた浅田真央の「神対応」

 サッカーは1968年以来メダルから遠ざかっていますが、Jリーグ発足後、「宣伝のため、中田英寿に会ってくれ」とPR会社に頼まれ、社内のサッカー通や女性編集者など数人で食事会を催しました。若い彼が宣伝のため、サッカーの魅力を初々しく語る姿は、「のちの『哲学者』中田とは大違い」と、当時会食したメンバーは好感度を一様に語ります。

 同じく中村俊輔選手。私は中村選手の『夢をかなえるサッカーノート』という本を出版させていただきました。彼と仲がいい編集者がロンドンまで出向き、子育ての手伝いまでして口説いた、少年時代からのサッカーノートを公開したものですが、当初は必死で断られました。理由は案外単純で、少年時代だから誤字脱字がある、と……。「今の印刷技術なら、誤字の部分を他のページから正しい文字を選んできてごまかせる」と説得して、オーケーになりました。編集してみれば、実際には誤字なんて2~3箇所。やはり俊輔は、勉強もできた少年だったようです。

 忘れられないのは、浅田真央さんとの短い会話です。彼女が引退したとき、文春の菊池寛賞の候補になり、社側では受賞が内定していましたが、実は浅田さんの事務所と文春は最悪の関係でした。「浅田さんの母親の葬儀を取材してくれるな」というお達しが出ていたのに、グラビア班が遠くから撮影、掲載してしまったのです(言い訳ですが、本当は他の雑誌が葬儀場内部まで入り込んだことに浅田さんが激怒したそうで、そこまでの失礼は文春はしていません)。

 以降、文春は浅田さんとは没交渉。菊池寛賞も受けてくれないかと思ったのですが、担当者が「野茂さんやイチローさんも受賞した」「アスリートにとっても名誉な賞」と説明すると、「本当はすべての賞を断っているのですが、野茂さん、イチローさんと同じなら出ます」という返事をいただきました。ただし事務所からは「そのとき、社の幹部があのことを本人に謝ってください」と注文がつきました。もちろん謝罪は当然です。