対照的に日本の国債は、2023年時点、日本銀行が50%を超えて持っている。その原資は、日銀が発行する現金や民間銀行の預け金だ。国内の金融機関も国債を購入している。他方、海外投資家の保有割合は約14%に留まる。よって、国債の多くは国民が直接・間接的に保有しており、日本の国債は資金が国外に流出する心配がない。

 論者の中には、国民が直接・間接的に国債を保有することで資産形成になっていると主張する者もいる。しかし、将来の成長と税収増に寄与するわけでもない赤字国債は、国民にとって資産といえるのだろうか?

 社会主義国では政府が生産手段を保有しコントロールするが、資本主義国は経済活動の多くを民間部門に委ねている。このため政府はその財源を税収に拠るしかない。

 政府は国債という負債を抱える一方、公共施設等の社会インフラや公的年金の積立金を含む資産も保有しているという意見もある。しかし、これらの資産が国債返済の原資になっているわけではない。民間企業ならば、いざとなれば土地や建物を売却して、借金の返済に充てることができる。他方、道路のようなインフラを売ることはできないし、積立金も将来の年金給付等に充てられる。一旦、その積立金を使ってしまえば、将来の給付が困難になりかねない。経済学者のヨーゼフ・シュンペーターは租税が収入の基盤となる近代国家を「租税国家」と呼んだ。

 租税国家では、国債の元利償還の財源も税金で、負担するのも国民である。もちろん、国債の元利償還を受ける個人と、税を負担する個人が厳密に同じわけではない。特に、国債を個人で直接に購入しているのは富裕層に偏るだろう。

 とはいえ一国全体でみれば、国債保有者としての国民と、その元利償還費を負う国民は概ね一致する。だから、国債の元利償還のために増税しても、国民にとっては、納税者としてのポケットから国債保有者としてのポケットにお金が移るだけだとも言える。

 しかし、見方を変えれば、国民の手元には何も残らない。これは、18世紀英国の経済学者デイヴィッド・リカードの定理を、米国の経済学者ロバート・バローが1970年代に再定理化した「リカード=バローの等価定理」として知られている。