小早川の寝返りは予期できても、その近くにいた4つの隊については、さすがの吉継も準備ができていなかったのでしょう。結果、大谷隊は大敗し、吉継も討死しました。

 また、家康はこのほか、細川忠興をはじめ、小早川秀秋と同じように豊臣政権下では冷や飯を食わされていた大名たちに近づき、五大老の権限を巧みに用いながら、領地を増やすなどして恩を売り、信頼を得ていきました。そうした武将らが東軍についたのです。

 大谷吉継のように、当初は東軍だったけれども、石田三成との友情を取って西軍についた例は稀でした。

 さて、9月15日の関ヶ原の戦いで石田三成らを退けると、家康は文書による交渉で、毛利輝元らを大坂城から退去させようと、今度は外交戦を仕掛けてきます。

 そのときには、三成の命令で大津城攻略に向かい、関ヶ原には参戦できなかった立花宗茂らも戻ってきていて、大坂城での籠城作戦によって、まだ戦いを続けようと輝元に進言していました。籠城する覚悟を決めれば、おそらく西軍の残存勢力も大坂城入りし、5?6万の兵が集まっただろうと思います。

 大坂城は、その後の大坂の陣で家康を手こずらせた天下の名城ですから、大坂城での籠城も悪くない手だったと思います。しかし、毛利輝元は、家康との交渉の結果、大坂城を明け渡してしまったのです。

 こうして9月25日に、輝元と毛利勢が大坂城を退去、27日には家康が大坂城入りを果たします。こうして家康の目的は達成され、関ヶ原の戦いは家康と東軍の勝利となったのでした。

 その後、家康はすぐに関ヶ原の戦いの論功行賞として、諸大名の領地の増減の決定に着手しました。これにより、諸大名は豊臣秀吉・秀頼との主従関係ではなく、徳川家と新たな主従関係を結んだことになります。言わば、家康は、秀頼に代わって、天下人として諸大名たちに振る舞ったわけです。

秀頼が関ヶ原に出てきていたら
歴史は変わったかもしれない

 しばしば江戸幕府は徳川家康が征夷大将軍に任命された慶長8(1603)年から始まるとされますが、論理的には、関ヶ原の戦いが集結し、大名たちの土地の差配を家康自身が行った時点で始まったと考えるべきでしょう。 家康は秀吉の死後、明らかに天下を取るために戦いを欲し、前田や上杉といった五大老たちに「喧嘩」をふっかけ、最終的には秀頼と対立することで、あえて大きな「喧嘩」である関ヶ原の戦いを引き起こして、これを制しました。戦いによって勝つというシンプルですが、武士にとっては重要な方