白雪糕地蔵盆でお地蔵さんにお供えする和菓子「白雪糕(はくせつこう)」

「六地蔵」の由来と道長・清盛

 ところで、この六地蔵めぐりは、いつどのようにして始まったのでしょう。

 京都駅から南東8kmほど、宇治市との境に「六地蔵」という地名が残り、そこにはJR奈良線・京阪宇治線・地下鉄東西線の三つの路線それぞれに「六地蔵」駅が存在します。この地名の由来をひもとくと、第17回などでも触れた平安時代初めの公卿である小野篁(おののたかむら)とまたしても関わりが。

 この篁は身長が190cm近くもあったという大男でしたが、あるとき病にかかって伏してしまいます。生死の境を彷徨(さまよ)っていたとき、地獄に落とされて苦しむ人々を、先に触れた六道を巡りながら、救い続けている地蔵菩薩と出会ったのです。

 地蔵菩薩から「地獄がいかに苦しいものであるかということ、そして私自身のことを、世の人たちに語り聞かせてほしい」との願いを託された篁は息を吹き返しました。そして、1本の桜の木で六道にちなんだ6体の地蔵を彫り上げ、現在の六地蔵エリアである木幡(こばた)の里に奉納したことが地名の由来となりました。

 木幡の里一帯は、当時権力を掌握していた貴族である藤原氏の人々が埋葬された地でもあり、宇治に別荘(後の平等院ですね)を所有していた藤原道長は、当地に浄妙寺(木幡寺)を建立。道長や息子の頼通もここに埋葬されたと伝わります。

 平安時代後期になると、平清盛が登場。1157(保元2)年、後白河天皇の命を受けた清盛が、西光法師に都の出入り口となる六つの場所にお堂を建てさせ、小野篁が彫った地蔵菩薩をそれぞれのお堂に祀ることで、都を守護しようとしました。このことが、六地蔵めぐりの起源と伝わっています。

 ちなみに、京都の六地蔵に倣い、江戸時代中期になると江戸にも街道の出入り口に地蔵菩薩が安置され、江戸六地蔵として現在に受け継がれています。