六道之辻西福寺(東山区)前に立つ石標「六道之辻」

鴨川東岸の怨霊伝説と「冥界」の入り口

 平安京が開かれた当初、左京の東端は東京極大路(現・寺町通)でした。鴨川を越えた東側は都の外で、さらに東山の葬送の地である鳥辺野へ続くことから、この世とあの世の境目として、不思議な伝説が生まれています。

 第4回でご紹介した都をどりの会場「祇園甲部歌舞練場」裏手には、第75代崇徳天皇御廟がひっそりとたたずみます。早良親王の追称「崇道天皇」と似た名ですが、数え5歳で即位した崇徳天皇こそ、後には『雨月物語』などにも描かれた平安最強の怨霊とされる存在なのです。

 崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇の第一皇子として誕生しましたが、祖父に当たる白河法皇の子とうわさになり、貴族や武士まで政権争いに巻き込む保元の乱が勃発。22歳にして譲位させられ上皇となり、保元の乱に敗れて讃岐国へ配流。写経を朝廷に納めようとしますがそれすら拒絶され、怒りのあまり当地で憤死しました(1164年)。舌をかみ切り、あふれた血で「大魔王となって祟らん」とつづり、髪を振り乱し、爪を伸ばした天狗の姿と化したのです。火葬時の煙が風向きに逆らって都の方へとたなびき、天変地異を巻き起こし、貴族社会の没落を招いて武士の世につながったと伝わります。

 崇徳天皇御廟から南へすぐの安井金比羅宮(東山区)は、御由緒によると、藤原鎌足の創建した堂に始まり、配流した側の後白河法皇が崇徳天皇の霊を鎮めるため建立した寺院がその起こりとも。縁切り縁結びの社として有名で、恋愛、ギャンブルなどあらゆる悪縁を断ち切り良縁を結んでくれるとして、祇園の芸舞妓からも信仰を集めています。崇徳天皇を祀る神社としては、京都御所西側に白峯神宮(上京区)もあり、こちらはスポーツの守り神としても人気があります。

 安井金比羅宮からさらに南へ。松原通沿いに「六道之辻」と記された石標が立ちます。ここが、疫病などで亡くなった多くの人々が打ち捨てられた平安京三大葬送地の一つ、鳥辺野への入り口です。すぐ目の前の西福寺(南区)は、帷子ノ辻の逸話と同じ檀林皇后にゆかりがあります。皇后の死後、その野ざらしとなった遺体が朽ち果てるまでの過程が生々しく描かれ、諸行無常を伝える「檀林皇后九相図」(通常非公開)が受け継がれているからです。

 西福寺から鳥辺野に向かって2分ほど歩くと、もう一つの六道の辻の石碑が立ちます。ここが六道珍皇寺(東山区)。毎年お盆の時期にご先祖様の精霊迎えの「六道まいり」が行われます。境内の「迎え鐘」を撞(つ)くと、この音をたよりにご先祖様の霊がこの世に戻るのだといわれ、多くの参拝者でにぎわいます。

 ここには小野小町の祖父とされ、嵯峨天皇に仕えた小野篁(たかむら)の伝承も。この篁、昼は朝廷に出仕し、夜はこの寺の境内から閻魔庁に勤めたとされ、冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」も発見されたそうで、このお寺にはあの世への出入り口もあったというわけです。参拝の折には、この井戸も一目見ておきましょう。

みなとや幽霊子育て飴本舗京都最古の飴屋「みなとや幽霊子育て飴本舗」(東山区)。お盆には行列ができることも

 界隈を訪れたらぜひ立ち寄りたいのが、「みなとや幽霊子育て飴本舗」(東山区)。インパクトのある店名には、こんな逸話が込められています。

 今から500年ほど前のこと。夜な夜な飴(あめ)を買いに来る一人の女性がいました。彼女の置いていったお代は木の葉に。不思議に思った店主が後をつけていくと、お墓の所で女性の姿が消えました。そこを掘り返してみると、女性の遺体の横で赤ん坊が元気な声で泣いていたのです。深い母の愛が幽霊の姿に変わり、子どもの命を守ったとのこと。琥珀(こはく)色の飴をほおばってみると、麦芽糖の懐かしくやさしい甘さが心に染み込んできて、きっと母親の愛情を感じることでしょう。

六道の辻もう一つの「六道の辻」石碑は六道珍皇寺の山門前に
【本文で紹介した名所ほか関連リンク集】
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