ひとくちにリーダーといっても、社長から現場の管理職まで様々な階層がある。抱えている部下の数や事業の規模もまちまちだ。自分の悩みが周りと同じとは限らず、相談する相手がいなくて困っている人も少なくないだろう。そんなときに参考になるのが、ゴールドマン・サックスなどの外資系金融で実績を上げたのち、東北楽天ゴールデンイーグルス社長として「優勝」と「収益拡大」をW達成した立花陽三さんの著書『リーダーは偉くない。』だ。本書は、立花さんが自身の成功と失敗を赤裸々に明かしつつ、「リーダーシップの秘密」をあますことなく書いた1冊で、「面白くて一気読みしてしまった」「こんなリーダーと仕事がしたい」と大きな反響を呼んでいる。この記事では、同書の一部を抜粋して紹介する。

【交渉力】メジャーリーグの大スターを「一発」で口説き落とした元・球団社長が明かす「意外な交渉戦術」写真はイメージです Photo: Adobe Stock

「アンドリュー・ジョーンズ」という大スター

「アンドリュー・ジョーンズ(A.J)と会えるかもしれません」

 楽天野球団の安部井寛スカウト部長に、そう聞かされたのは2012年のウィンター・ミーティングの真っ最中でした。

 ウィンター・ミーティングとは、アメリカのメジャーリーグとマイナーリーグの全チームの代表、オーナー、GM、監督、スカウトなど、プロ野球に関係するあらゆる人物・組織が参加して、毎年12月頭に開催される一大イベントです。そこには、選手の代理人なども多数参加して、トレードをはじめとする交渉もさかんに行われています。そこでA.Jの代理人から、「いまアトランタにA.Jがいる。そこに行けば、会えるかもしれない」という話を聞いたのだと言います。 

 もちろん、僕は「じゃ、行こうよ」と即決。安部井さんを含むスカウト陣3人と僕で、彼らがどこかから調達してきたボロ車に乗り込んで、ウィンター・ミーティングの開催地であるナッシュビルから、A.Jのいるアトランタへと向かったのです。

 A.Jの名前を初めて聞いたのは、渡米する前のことです。

 アメリカのエージェントからスカウト部に入った、「どうやら、A.Jがフリー契約になるらしい」という情報を社長である僕にも共有してくれたのです。

 当時は大リーグに関する知識がほとんどなかった僕にとって、A.Jの名前は初耳。「誰それ?」と聞くと、安部井さんは「は? 知らないんですか?」と呆れながらも、興奮気味にその凄さを教えてくれました。

 カリブにあるキュラソー島の出身で、1996年にアトランタ・ブレーブスでメジャーデビュー。1998年から10年連続でゴールドグラブ賞を受賞したほか、2005年から2年連続で「40本塁打・100打点」を記録。大リーグを代表する外野手として、ブレーブスの黄金期(A.J在籍中に2度のリーグ優勝)を支えたスター選手でした。

 しかし、2007年にドジャーズに移籍して以降は成績が振るわず、レンジャーズ、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩きましたが、2012年の後半戦には打率1割台と大苦戦。いよいよフリー契約かと取り沙汰されていたのです。

 そのときの僕は、A.Jの凄さをまだちゃんと認識できていませんでしたが、たしかに魅力的な選手だと思いました。

 というのは、星野監督からは、「楽天の選手たちは“負け癖”がついている。優勝を知っている、強力な外国人助っ人がほしい」という要請を受けていたからです。しかも、当時の楽天打線は左バッターが多かったので、右バッターであるA.Jが4番に座れば相手チームにとって「厄介な存在」になると思いました。

 とはいえ、本当にフリー契約になるかどうかもわからない状況だったし、そもそも、スカウト部も冗談半分で、そんな大スターを楽天野球団が獲得できるとは思っていないように見えました。だから、僕も「そうか、A.Jというすごい選手がいるんだな……」くらいの気持ちで聞いていただけだったのです。

【交渉力】メジャーリーグの大スターを「一発」で口説き落とした元・球団社長が明かす「意外な交渉戦術」立花陽三(たちばな・ようぞう)1971年東京都生まれ。小学生時代からラグビーをはじめ、成蹊高校在学中に高等学校日本代表候補選手に選ばれる。慶應義塾大学入学後、慶應ラグビー部で“猛練習”の洗礼を浴びる。大学卒業後、約18年間にわたりアメリカの投資銀行業界に身を置く。新卒でソロモン・ブラザーズ証券(現シティグループ証券)に入社。1999年に転職したゴールドマン・サックス証券で実績を上げ、マネージング・ディレクターになる。金融業界のみならず実業界にも人脈を広げる。特に、元ラグビー日本代表監督の故・宿澤広朗氏(三井住友銀行取締役専務執行役員)との親交を深める。その後、メリルリンチ日本証券(現BofA証券)に引き抜かれ、数十人の営業マンを統括するも、リーダーシップの難しさを痛感する。2012年、東北楽天ゴールデンイーグルス社長に就任。託された使命は「優勝」と「黒字化」。星野仙一監督をサポートして、2013年に球団初のリーグ優勝、日本シリーズ制覇を達成。また、球団創設時に98万人、就任時に117万人だった観客動員数を182万人に、売上も93億円から146億円に伸ばした。2017年には楽天ヴィッセル神戸社長も兼務することとなり、2020年に天皇杯JFA第99回全日本サッカー選手権大会で優勝した。2021年に楽天グループの全役職を退任したのち、宮城県塩釜市の廻鮮寿司「塩釜港」の創業者・鎌田秀也氏から相談を受け、同社社長に就任。すでに、仙台店、東京銀座店などをオープンし、今後さらに、世界に挑戦すべく準備を進めている。また、Plan・Do・Seeの野田豊加代表取締役と日本企業成長支援ファンド「PROSPER」を創設して、地方から日本を熱くすることにチャレンジしている。著書に『リーダーは偉くない。』(ダイヤモンド社)がある。

「可能性」があるなら、まず動く

 ところが、車で数時間かけてアトランタに行けば、「そのA.Jに会えるかもしれない」となれば、一気にリアリティが出てきます。

 もちろん、「会えるかも」という不確定な状況ではありましたが、アトランタに行かなかったら、会える確率はゼロ。だったら、行くしかないですよね? そこで、とにかく「動いてみる」ことにしたのです。そして、真夜中にアトランタに到着したのですが、残念なことに、翌日はA.Jは会えないと言います。

 仕方ないので、みんなでアトランタ・ブレーブスの球場を見に行きました。

 これが僕にとっては大きかった。というのは、ブレーブスの球場内のあちこちに、アトランタの英雄であるA.Jにまつわるさまざまなものが飾られていたほか、映像なんかもガンガン流されているのを目の当たりにしたからです。

 それを見て、ようやく僕は、「A.Jって、こんなにすごいやつなのか……」と腹に落ちたのです。しかも、球場の売店のスタッフなど2~3人に、A.Jのことをいろいろ聞いたのですが、「A.Jって性格もいいの?」と尋ねると、全員がにっこり笑って「すごくいい人ですよ」「人気者だね」などと口々に回答。それが僕にとっては決定的でした。

 選手としてすごい実績があって、優勝経験も豊富で、しかも性格もいい。選手としての全盛期はすぎているかもしれないけれど、楽天野球団の若い選手たちを引っ張っていくリーダーシップを期待できるんじゃないかと思ったのです。

「よっしゃ、なんとしてもA.Jを獲るぞ」と決めた僕は、三木谷オーナーや星野監督にも連絡を入れました。おふたりともA.Jと交渉すること自体は前向きな反応を示してくださいましたが、「あのA.Jが本当に相手にしてくれるのか?」「やれるならやってみろよ」という雰囲気も伝わってきたように記憶しています。

 その後、スカウト部長である安部井さんからも星野監督に電話をかけて状況説明をしたときには、「お前、本当にA.Jなんか獲れるのか? 悪いやつに騙されてるんじゃないのか?」と言われたそうです。

契約は「一発サイン」をめざす

 そして、状況は動きました。

 実際にアトランタまでやってきたことが相手の気持ちを動かしたのでしょう、その翌日に、A.Jが「会うと言っている」という連絡が入ったのです。

 その報を受けて、僕たちはすぐに作戦会議を開きました。そこで僕が主張したのは、「一発でサインさせる」ということ。これに、スカウト陣の3人は「そんなことできるわけがないじゃないですか?」と呆気に取られていました。

 彼らは何度も外国人選手の獲得交渉をやってきた実績がありますが、“たった1日”でサインしてもらうなんてあり得ないと言います。

 まず代理人と何度か話し合って“地ならし”をしたうえで、本人と出会って契約書にサインしてもらうのが通常のプロセス。早くても数日はかかり、大物になればなるほど時間がかかる。A.Jクラスの超大物であれば、数週間はかかってもおかしくないと言うのです。

 だけど、僕は譲りませんでした。

 もちろん、相手のある話だから、「一発サイン」ができないこともあることはわかっています。だけど、こちらとしては「一発サイン」をさせるための作戦を考えると言い張ったのです。

 これは、金融マンだった頃からの僕のやり方です。特に、相手が大物であればあるほど、なんとしても「一発サイン」できるように作戦を練っていました。

 なぜなら、いくら「好感触」を得ていたとしても、気が変わったら終わりだからです。特に大物に対しては、僕のライバルがあの手この手でアプローチしてきますから、いくらでも変節する可能性があるわけです。

 つまり、なんとか「一発サイン」をしてもらうことで、なるべくはやく“安全圏内”に到達する必要があるということ。それが、ビジネス交渉における僕の「鉄則」だったのです。

「破格の契約金」で腹を決める

 問題は「金額」です。

 日米球界の契約金の相場、楽天野球団の懐事情などを踏まえつつ、2~2.5億円を上限に設定。もちろん、大リーグの球団がA.Jを獲りにくれば、この金額では勝ち目はありませんが、“ない袖”は触れません。

 あとは、チームの優勝、打率、本塁打数などの基準を達成したら支払うインセンティブでいかに納得を引き出すかが勝負だと考えました。

 とはいえ、これは、楽天野球団としてはかつてない破格の金額です。

 一瞬躊躇はしましたが、すぐに「これでいこう」と決断。球団の財務状況を踏まえて、A.Jに多額の投資をしても、全体で辻褄を合わせる算段はつけられると思いましたし、星野監督が求めている「強力な助っ人」としてA.J以上の逸材がいるとは思えませんでした。

 しかも、「優勝」という目標を早期に達成するためには、A.Jクラスの「助っ人」が不可欠。「やるしかない」と腹をくくるとともに、そのようなロジックで三木谷オーナーの了解を取り付けて、A.Jとの交渉に臨むことにしたのです。

 そして、交渉当日──。

 交渉場所として、A.Jは高級ホテルレのレストランのワンフロアを貸し切ってくれていました。そこにA.Jはマネージャー3人を伴って現れ、僕たち4人と計8人でテーブルを囲んで交渉はスタート。僕はいろいろな話をしましたが、特に力を込めて伝えたのは次の2点でした。

 まず第一に、楽天野球団は東日本大震災によって大きな被害を受けた東北を拠点とする球団であるということです。

 そして、三木谷オーナーや星野監督をはじめ球団を挙げてめざしているのは、楽天野球団が「優勝」することによって、被災地東北の方々を元気づけることであると熱く語りかけました。東日本大震災のことはアメリカでも報道されていたため、A.Jもこの話には何度も頷きながら耳を傾けてくれました。

 そして、第二に力説したのは、「優勝」させるためには、強力なリーダーシップを発揮する選手が必要だということでした。

 楽天野球団にはいい選手がたくさんいるが、若い選手が多く、「優勝経験者」がほとんどいない。だから「勝つ」ために何をしたらいいのかが、はっきりとわかっていない。だから、あなたのような「実績」をもつ一流の選手にリーダーになってもらって、そのスピリットをチームに植え込んでほしい……。

A.Jの「顔つき」が変わった瞬間

 このような話をしたときに、A.Jの顔つきがはっきりと変わりました。

 そして、彼は誇りの高い男でした。全盛期を過ぎた大リーガーが、最後に日本で“ひと稼ぎ”して引退するのはよくある話ですが、A.Jはそんなことがしたいわけではなく、自分がこれまでに培ってきたものを、若い選手に伝えてから引退したいという明確な意思をもっていると感じたのです。

 しかも、彼はレギュラーとして活躍したいという強い願いももっていました。であれば、もしも大リーグの球団が彼を口説きにかかっても、僕たちに“勝ち目”があると思いました。大リーグの球団のほうが契約金は高いけれども、レギュラーとして活躍できる可能性は決して高くはなかったからです。

 だから、僕はグイグイと押しまくりました。

 5~6時間に及ぶ交渉でしたから、途中でイスの上で“あぐら”をかいて、A.Jを口説き落とそうと熱弁を振るっていたのですが、その僕の熱意に応じるように、A.Jも身を乗り出すようにして、野球に対する熱い思いを語ってくれました。そして、「これはいける」という感触をつかんだ僕は、金額の話を持ち出しました。

 すると、一瞬、A.Jの表情が曇りました。

 大リーグの相場からすればかなり安い金額だから、その反応は想定内。だから、僕は全くひるみませんでした。

 彼はきっと、楽天野球団でレギュラーとなり、リーダーとして活躍することを選択してくれると確信していたので、「今日、契約書にサインしてほしい」「もしそれができなければ、この話はなしだ」とグイグイと強気で押しまくったのです。

契約書は所詮は「紙切れ」にすぎない

 しかし、彼は戸惑いを隠しませんでした。

 そして、代理人たちと相談をするために、2~3回ほど退席して、30分ほど帰ってきませんでした。

 彼の一存でいきなり日本行きを決めることはできませんから、おそらく、ご家族をはじめとした関係者に電話で相談していたのでしょう。交渉の場に戻ってくるたびに、いろいろな要求をしてきましたが、それらの調整をうまくつけると、ついに彼は「わかった。サインするよ」と言ってくれたのです。

 こうして大仕事を終えた僕たちは、その晩、4人で祝杯をあげました。

 だけど、それで安心したわけではありません。いくらサインしてもらったとはいえ、契約書は所詮は紙切れです。その気になったら、いくらでも反故にできる。だから僕は、A.Jが本当に日本にやってくるまでは気を抜かず、「助っ人」は探し続けるように、スカウト部長たちには指示をしました。

 とはいえ、A.Jの獲得は大きかった。

 ビッグネームとの契約が決まったことで、三木谷オーナーを筆頭に、選手、球団社員まで、みんなの期待感が高まりますし、メディアの注目度もアップします。その結果、球団に「運気」のようなものが吹き込まれるというか、球団をとりまく空気がポジティブなものへと変わったように思うのです。

 また、僕にとって嬉しかったのは、この一件で、星野監督が球団社長としての僕を信頼してくれるようになったことです。

 おそらく、星野監督の「優勝を知っている、強力な外国人助っ人がほしい」という要望を受けて、僕が全力でA.Jをとりに行ったのを見て、「こいつは、口だけじゃないんだな」と認識してくださったのでしょう。

 これ以降、僕になんでも話していただけるようになったり、僕の話に真剣に耳を傾けてくださるようになったと思うのです。これは、本当に嬉しかったし、球団経営にとっても非常に大きなメリットをもたらしてくれたと思っています。

「経験」を積めば積むほど、「行動力」に制限がかかる?

 もちろん、これは僕の手柄ではありません。

 安部井さんをはじめとするスカウト陣がいなければ、あんなことは起こりえなったわけですから、僕がやったことはほんの一部にすぎません。だけど、僕なりに全力を尽くして、A.Jを獲得できたことは本当に幸せなことでした。

 なぜなら、僕たちの期待どおり、A.Jは、チームのリーダー(精神的支柱)として大活躍。松井稼頭央選手や嶋基宏選手などリーダー格の日本人選手とも良好な関係を築いてくれたうえに、選手たちが言えないようなことを星野監督に伝えてくれる唯一の存在でもありました。

 それに、A.Jとともに、打線の中軸を担ってくれたマギー選手を獲得するように推薦したのも実はA.Jで、A.Jの推薦がなければマギー選手が入団することもなかったと思います。

 そんなA.Jがいてくれたおかげで、シーズンを通して最高のチームワークを維持できたのだし、野球選手として圧倒的な実績をもつ彼が若い選手たちを叱咤激励することで「勝利への執念」のようなものも植え付けてくれたように思います。まさに、2013年の楽天野球団の初優勝の「立役者」になってくれたのです。

 ただ、こうして当時のことを振り返ると、「あの頃の自分は、“怖いもの知らず”だったな……」という気がします。

 決してネガティブな意味ではありません。そうではなく、当時の僕は、プロ野球のことも大リーグのことも知らない“ど素人”だったからこそ、大リーグのレジェンドであるA.Jに対してあんな交渉ができたように思うのです。

 今だったら、僕は業界のことを知ってしまったがために、「A.Jに対して、こんな金額で交渉はできないよな……」「さすがに相手にしてくれないよな……」などと考えて一歩を踏み出さなかったのではないか。つまり、経験を積んだことで「知恵」「知識」がついた反面、「行動力」に制限をかけてしまったような気がしてならないのです。

「怖いもの知らず」という武器を活かす

 もちろん、単なる「怖いもの知らず」で突っ走ることで、致命傷を負うこともありますから、それを手放しで推奨するわけにはいきません。

 あの頃の僕だって、三木谷オーナーや前社長の島田さんが僕を見守っていてくださり、絶妙な「手綱さばき」をしてくださったからこそ、「怖いもの知らず」で突っ走っても大事故は起こさなかったように思います。

 だけど、あのとき、僕のような「怖いもの知らず」がいなければ、おそらくA.Jは楽天野球団には来なかったはずです(日本にも来なかったかもしれません)。とすると、やはり「怖いもの知らず」であることは、リーダーにとって「武器」であると言ってもいいような気がするのです。

 もう一歩踏み込んで言えば、「怖いもの知らず」で失敗することがあったとしても、それが致命傷でさえなければ、その失敗経験から多くのことを学ぶことができるはず。それも成長の一過程と捉えることができるわけです。

 そう考えると、リーダーになったときは、あまり“お利口”になろうとせずに、「怖いもの知らず」という武器を生かしたほうがいいように思います。それと同時に、あまり長くリーダーにとどまると、「知恵」や「知識」が邪魔をして、「行動力」に制限がかかってしまうという「弊害」が生じることも認識しておくべきでしょう。

(この記事は、『リーダーは偉くない。』の一部を抜粋・編集したものです)