アトキンソンとジョブズの距離感を
「廊下の向こう側」で伝えきった?

 日本語でどう表現するかも並行して考えなければなりません。「廊下の向こう側」だと、短辺側、つまり、廊下を挟んで向こう側の壁際というのが素直な解釈のはずで話が違ってしまいます。「廊下の先」「廊下を行ったところ」はPacific Roomの入り口に視点があって、そこから遠くに立つアトキンソンを見る情景になってしまい、使えません。アトキンソンは歓声を聞き、ためいきをついて歩き出すわけで、アトキンソンに寄った情景でなければならないからです。

 じゃあ「廊下の手前」か。その場合、直前の会場内におけるジョブズの演説シーンとうまくつながりません。「部屋の中」から「その部屋を廊下の向こうに望む位置」へとすっきり場面転換するのは難しいのです。英語では問題なくできるのですが、日本語ではうまくできません(逆に日本語で簡単にできて英語にできないこともいろいろとあります)。

 そもそも、著者は“down the hall”でなにを伝えたかったのでしょう。

 アトキンソンは不満をいっぱい抱えていて、研修会の会場に入れなかった。足が止まってしまった。それも、かなり手前で止まってしまった。そんなところでしょう。

 であれば、読者を置いてけぼりにすることなく「部屋の中」からすんなり場面転換できて、部屋から離れているとわかる表現にするのがいい。そう判断した結果が「ホールの反対側」です。

 廊下うんぬんで距離感を出すのは難しいですし、「ホールにいた」も、読者はこの見取り図を見ていませんから、部屋の入り口がホールに面していてそこにいたと思う人が出てくる可能性を排除できません。

 そんな経緯だったわけですが、いまふり返ると、詰めが甘かったなと思います。会場のかなり手前で足が止まったことを表現するのに、場所を明記する必要はなかったな、と。

 たとえば「大歓声が聞こえたアトキンソンはためいきをひとつつき、研修会に加わろうと会場に向かって歩き始めた」といった形でも離れていたことはわかりますし、たぶん、こちらのほうがよかったのではないかと思うのです。なんだかんだ、時間がなくてあせっていたのかもしれません。