書影『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)
白央篤司 著

「伝えていくことをしないと、師匠や先輩方に申し訳ないですからね。落語は自分の命の恩人やと思てます。落語に出合ったことで、自分も……この世に居ていい存在なんだと思えたというか」

 目標はありますか、と訊くとしばし考えたのち「質を高める、ということですかね」とだけ返ってきた。自身の芸でもあり、人間の質ということでもあり、両方の意味に思える。静かな熱意が伝わってきた。

 飾られている吉朝さんの写真の上に、米朝さんの写真もある。浴衣姿で、実にくつろいだ表情だ。ふたりの師匠と一緒に、吉坊さんはいつも食事をしているんだなあ……なんて感じていたら、窓から風が入ってきて、ゆきひら鍋からいい匂いの湯気が立った。

吉朝さんの写真同書より転載

「そんなに豆腐を煮込んだらあかんがな」

 米朝さんの声がふと聞こえたような気がした。

筆者・白央篤司がごちそうになった鍋の主
桂吉坊(かつら・きちぼう)さん 1981年、兵庫県西宮市生まれ。17歳で桂吉朝に入門し落語家の道へ。2000年から3年間ほど、桂米朝(吉朝の師匠)の内弟子として住み込みで過ごす。自身の落語会はもとより、他ジャンルの古典芸能家とのコラボイベントなどでも活躍。大阪府在住。