一方の津村は吉村が発表した小説『死体』を読んで、

〈……いきなり脳天を強打されたような気がした。〉(『ふたり旅』岩波書店)

 学生が書いたとは思えない、才能を感じたのだ。津村との結婚のために吉村は兄が経営する紡績会社に就職したが、結婚の1週間前に突然勤めを辞めてしまう。

 サラリーマンと結婚すると思っていた津村は言葉を失った。夫は定収入という安定をあっさり捨ててしまったのだ。兄の庇護を受けるのは嫌だと吉村は言ったが、小説を書く時間がほしかったのではないかと津村は思った。

 収入が途絶えたので、吉村は自分で事業を始めた。紡績の知識はあったので原毛を買いつけ、撚糸工場に発注して業者に売るというものだ。吉村に小説以外の事業の才覚があったのは意外な印象を受ける。

夫婦で挑んだ商売の道
吉村昭と津村節子の試練と絆

 新婚のアパートに「東京紡績株式会社」の看板を掲げ、吉村が社長、津村はいきなり無給の経理係兼電話番になった。

 津村が当時のことを記している。

〈結婚してまだ3月目で、私は夫の言い分に反対をのべることはできなかった。勤めを辞めて夫がこれから自分1人で始めるという仕事は、世間知らずの私にもひどく危なげに思えた。それなのに夫の言葉に賛意を示したのは、理解ある妻と思われたいという見栄からであった。〉(『みだれ籠』文春文庫)