第一次世界大戦の勃発により
時代の激流にのまれた中央鉄道

 1910年の免許は「中央軽便電気鉄道」の社名のとおり、電気鉄道として認可されたが、翌1911年の会社設立にあたっては「中央鉄道」に改称し、蒸気鉄道に変更。その上で終点を宮ケ谷塔から岩槻に変更した。当時の新聞で同社は「本線全部完成の暁は、東武鉄道と並びて至便の交通機関として世上に貢献する」との高い理想を語っている。

 中央鉄道は1912年11月に川口~岩槻間の工事施行認可を受け、翌年には着工。同社の事業報告書によれば、工事は遅くとも1914年5月末までに竣工し、営業開始するとの見通しだった。ここまでは順調に見えたが、中央鉄道は時代の激流にのまれていく。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの金融システムの混乱、海上輸送の途絶で、日本にも恐慌が押し寄せた。地方金融は大混乱し、発起人からの資本金払い込みが滞った。ところが不況は長く続かず、すぐに軍需品の注文が殺到し、一転して大戦景気が到来した。経済状況は好転したものの、今度は地価・物価の高騰、人手不足で建設は中断に追い込まれた。

 川口付近の地価が高騰し、用地買収が困難になったことから、1916年に起点を川口から蕨に変更、また岩槻から菖蒲、加須を経て忍への延長線を構想し、1918年には社名を「武州鉄道」に改称した。そうしているうちに大戦景気は終わり、深刻な戦後恐慌が訪れた。