武州鉄道と総武鉄道の
社長を兼ねた本多貞次郎

 そんな中、1924年3月に武州鉄道の社長に就任したのが、京成電気軌道社長の本多貞次郎だった。本多は、可能な範囲から鉄道を開通させることが重要と考え、わずか3カ月で蓮田~岩槻間を一気に竣工させ、10月19日に開業した。

 初めて岩槻にやってきた鉄道は沿線から歓迎された。開業当日はアーケードに「祝開通 武州鉄道」の看板が掲げられ、紅白幕が張りめぐらされた。また食事の提供、余興、打ち上げ花火を行い、全区間を3日間無料とした。

 しかし、岩槻から蓮田に出て、蓮田から大宮、東京方面に向かうのは遠回りだ。岩槻~大宮間には大正中期にバスの運行が始まっており、昭和初期には15分ごとの高頻度運転が行われていた。開業を前にして、蓮田を経由して大宮方面に向かうメリットはなくなりつつあったのである。

 追い打ちをかけたのは、5年後の1929年に粕壁(1944年に春日部に改称)~大宮間に開業した総武鉄道だ。同社は1910年に野田町(1950年に市制施行し野田市)~柏間に開業した千葉県営鉄道の払い下げを受け、1922年に「北総鉄道」として設立(大宮延伸にあわせて1929年に総武鉄道に改称)されたが、くしくも初代社長は本多貞次郎だった。

 本多の狙いは千葉県内の私鉄ネットワークの形成にあったとみられ、北総鉄道設立にあわせて柏~船橋間の免許を申請し、早くも1923年末に開業させた。これが現在の野田線の同区間である。しかし、1926年に野田町から埼玉方面、大宮までの延伸構想が浮上すると、経営方針の対立から社長を退任した。いずれにせよ本多は武州鉄道開業時、両社の社長を兼ねていたことになる。