第一次世界大戦前に開業していたら
一定の存在感を発揮した可能性も

 歴史に「IF」はないと言われるが、京成や京王のように、第一次世界大戦前に岩槻~川口間を開業していれば、大正中期以降の郊外化の受け皿となり、東北本線と東武線の鉄道空白地帯を埋める私鉄として、一定の存在感を発揮した可能性がある。

 開業時の車両・施設はあまりにも貧弱だが、同時代に開業した東上鉄道(現在の東武東上線)、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)も、当初は蒸気鉄道だった。

 これら路線が都市圏の拡大に伴い、1920年代に電化していったことを踏まえれば、武州鉄道にもそうした未来がなかったとは言えない。最終的に総武鉄道と同様、東武鉄道に併合される結果となったかもしれないが、通勤路線として存続できただろう。

 実際、赤羽、鳩ケ谷、安行と武州鉄道をなぞるように走っているのが、2001年3月に開業した埼玉高速鉄道だ。同線には浦和美園から岩槻を経て、蓮田へ延伸する構想が存在し、先行区間として浦和美園~岩槻間の事業化が検討されている。これが実現すれば、武州鉄道が果たせなかった夢が100年越しに結実する。

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 ただ、埼玉高速鉄道は2015年、事業再生ADRによる債務の削減・返済繰り延べを実施し、ようやく黒字化したことからも分かるように、必ずしも順調な経営だったわけではない。この地域が市街化したのは都心からの距離のわりに比較的遅く、1970年代以降のこと。開業時点でも需要が不足しており、初年度の輸送人員は目標値の3分の1にとどまった。

 開業から20年以上が経過し、沿線開発も随分進んだが、沿線にはまだまだのどかな田園風景が広がっている。蕨であれ川口であれ、京浜東北線に乗り換えて都心直通が可能な環境が整っていれば、武州鉄道沿線は史実より早く市街化した可能性があるが、それまで会社が持ちこたえることができたかは分からない。

 鉄道整備は先行投資の側面が大きく、高度成長にオイルショック、バブル景気など、時代の変化に左右されがちだ。武州鉄道もまた、大きな可能性を秘めながら時代に翻弄された存在だったのかもしれない。