しかも、入社2年目にタイ・ブリヂストンに赴任。右も左もわからないまま、現地採用の荒くれ者のクーリー(苦力)たちの反発にもみくちゃにされ、上司に相談しても「それはお前の仕事だろう」と突き放されたときには、「もう会社を辞めたい」と思い詰めたりもしました。
ところが、そこでクーリーたちと必死に向き合って、問題を乗り越えることに成功すると、「仕事の面白さ」「仕事のやりがい」を体感。その後、工場における製造管理・倉庫管理・労務管理や営業などの専門性を磨きながら、「どうせやるなら、面白い仕事がしたい」という思いを胸に、自ら「言い出しっぺ」になって新しいプロジェクトにチャレンジするようになりました。
そうした新規プロジェクトを成功に導くためには、社内外の関係者や工程全体のことを視野に入れて、複雑な調整を図りながら物事を進める能力を磨く必要があります。その結果、知らず知らずのうちに、私なりに「経営視点」を身につけることができたように思うのです。
人は経験を通じて「自分」を知る
もちろん、これは私の個人的な体験であり、過度に一般化することには慎重にならなければならないでしょう。
それに、若い頃から、自分の能力・適性をしっかりとつかんでいて、一直線にプロフェッショナルとして活躍するような「天才肌」の人物がいるのも事実です。しかし、そういう人はほんの一握りにすぎません。
私がこれまで見てきたほとんどの人は、なんらかの縁で入社した会社で、さまざまな仕事を与えられ、それと悪戦苦闘するなかで、「自分の適性」や「自分の能力」「自分のやりたいこと」を把握していったのだと思います。人間とはそもそもそういう存在だという気がするのです。
だから、私は、まだ経験の少ない若者に「ジョブ型雇用」を強いることには慎重であるべきだという考えです。
もちろん、若者のなかには「ジョブ型」の志向性を強くもち、「自分が希望する職種に就けないならば、転職します」という考えの人もいるので、従来型の「メンバーシップ型雇用」が嫌われる側面があることは理解しています。
しかし、若い頃に「自分はこの仕事に能力があるはず」「自分はこの仕事がしたい」という仕事につけたとしても、その仕事で結果を出せず、その後のキャリアの可能性が狭くなるリスクがあるのが現実です。そのときに彼らが受けるダメージの大きさを思うと、私は慎重にならざるをえないのです。
「ジョブ型雇用」が組織を壊す?
もうひとつ指摘しておきたいことがあります。
それは、会社が「ジョブ」を規定することによって、従業員たちの「思考」まで固定化してしまうリスクの存在です。
たとえば、みなさんも経験があると思うのですが、会社で仕事をしていると、それぞれの部署、それぞれの担当者の「守備範囲」の間に落ちた仕事を、誰が拾うのかという問題が発生することがあります。
こういうときに、「メンバーシップ型」の会社であれば、全員が「会社のために貢献しよう」という意識で働いているため、お互いに話し合って、臨機応変に対応するのが比較的容易だと思います。
ところが、「ジョブ型」の会社の場合には、下手をすると、「その仕事は、ジョブに規定されていない」という理由で、誰も“落ちた仕事”を拾おうとしないおそれが高まるのではないでしょうか。
つまり、「メンバーシップ型」の場合には、組織がアメーバのように臨機応変に変化して、“落ちた仕事”を吸収していくけれども、「ジョブ型」の場合には、「役割」が固定化してしまうために、「組織のフレキシビリティ」が損なわれるおそれがあるのです。
あるいは、さらに極端なことを言えば、「ジョブ型雇用」システムを徹底すると、自分の「ジョブさえこなせばよい」という意識が支配的になる結果、それぞれの部署・担当者が「蛸壺化」するリスクもあるでしょう。
比喩的に言えば、会社の仕事を個別の「ジョブ」に切り分けることによって、会社全体が「生命体」として機能するうえで欠かせない「有機性」が損なわれる可能性があるということです。これは、「ジョブ型雇用」を採用する際には、経営的に十分に注意を払うべき問題だと思います。
「戦闘力」の高い人材とは?
ただし、私は、ヨーロッパなどで経営をしたときに、「ジョブ型雇用」がもたらすと思われる非常に重要なメリットも認識しています。ここに、欧米の従業員と、日本人従業員との明確な違いがあるとすら思っているのです。