必ずしも「飲酒=悪」ではない
たまの憂さ晴らしは仕方がない

 こうした「概ねしらふでいる」という原則には例外が設けられていて、それは理にかなっていると私は思います。

 避けられない状況になったら自制心をいったん保留できるようになっているのです。ストア派はたまには――つまりめったにはないという意味ですが――酔いで解き放たれるものがあるのを分かっていたのです。

 スランプに陥って頭の中が悶々としているときのことを考えてみてください。ひょっとすると恋人に振られたか、職を失ったのかもしれません。

 いつでも善意の友達というのはいるもので、あなたをジャージの上下から何かおしゃれな服に着替えさせ、「憂さ晴らしする」ために飲みに連れ出してくれます。彼らは身体に喝を入れるための1杯があなたに必要だと言うでしょう。ときには実際に、街に一晩繰り出すことがギアチェンジに必要な薬になることもあります。

 これはストア派の助言からそれほど離れていません。

 セネカは、ときにはこのように考えました。

「べろんべろんに酔うほどではなく、自分をちょっとワインに浸すだけにして、ほろ酔い程度までは飲んだ方がよい。なぜなら、ワインは悩みを洗い流し心の奥底から取り除き、病気に対して効き目があるように、悲しみを癒してもくれるからだ。ワインを発明した神はリーベルと呼ばれるが、それは彼が我々に舌を自由に使うことを認めているからではなく、心配事に囚われている心を解放して自由にし、生気を与え、挑もうとすることすべてにおいてさらなる勇気を与えてくれるからなのだ。」
「覚えておいて欲しいのだが……」古代ローマの哲学者が教える「宴会ルール」が現代でも参考になる『心穏やかに生きる哲学 ストア派に学ぶストレスフルな時代を生きる考え方』(ブリジッド・ディレイニー著、鶴見紀子訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)

 これではストア派がどっちつかずの態度を取っているように聞こえるかもしれませんが、要はすべて彼らの哲学に沿っているのです。

 節度を保ち、自制心を維持し、規律を守り、そして、ごくまれにですが、必要があるのなら羽目を外せばいいのです。

 ストア派は自分でコントロールして物質を利用するのであって、物質にコントロールされてはいないのです。