必ずしも「飲酒=悪」ではない
たまの憂さ晴らしは仕方がない
こうした「概ねしらふでいる」という原則には例外が設けられていて、それは理にかなっていると私は思います。
避けられない状況になったら自制心をいったん保留できるようになっているのです。ストア派はたまには――つまりめったにはないという意味ですが――酔いで解き放たれるものがあるのを分かっていたのです。
スランプに陥って頭の中が悶々としているときのことを考えてみてください。ひょっとすると恋人に振られたか、職を失ったのかもしれません。
いつでも善意の友達というのはいるもので、あなたをジャージの上下から何かおしゃれな服に着替えさせ、「憂さ晴らしする」ために飲みに連れ出してくれます。彼らは身体に喝を入れるための1杯があなたに必要だと言うでしょう。ときには実際に、街に一晩繰り出すことがギアチェンジに必要な薬になることもあります。
これはストア派の助言からそれほど離れていません。
セネカは、ときにはこのように考えました。
これではストア派がどっちつかずの態度を取っているように聞こえるかもしれませんが、要はすべて彼らの哲学に沿っているのです。
節度を保ち、自制心を維持し、規律を守り、そして、ごくまれにですが、必要があるのなら羽目を外せばいいのです。
ストア派は自分でコントロールして物質を利用するのであって、物質にコントロールされてはいないのです。