人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者(@keiyou30)が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。

発明王エジソンや世界のセレブが愛飲した「禁断のワイン」とは?Photo: Adobe Stock

コカインの誕生

 南米アンデス山脈に原生する低木樹のコカノキは、三千年以上前から嗜好品として原住民に愛されてきた。その葉を噛んでエキスを吸うと、気分が高揚する作用があったからだ。

 インカ帝国の人々も、古くからコカノキの葉を好んで噛んでいたという。

 十九世紀半ば、ドイツでコカノキの有効成分が初めて抽出され、「コカイン」と名づけられた。

ヨーロッパで爆発的なヒット

 コカインの効果は強力だった。摂取すると自信が漲り、活力があふれ、精神がハイになる。その人気は凄まじく、コカインを含む強壮剤や飲料が次々に発売され、その魅力が広く受け入れられた。

 フランスの化学者アンジェロ・マリアーニが発明したコカイン入りのワイン「マリアーニ・ワイン」はヨーロッパ全土で爆発的に売れ、発明家のトーマス・エジソンをはじめ、歴史に名を残す著名人たちが愛飲したことでも知られている。

発明王エジソンや世界のセレブが愛飲した「禁断のワイン」とは?マリアーニ・ワイン(イラスト:竹田嘉文)

コカインとコカ・コーラ

 また、アメリカの薬剤師ジョン・ペンバートンもコカイン入りの新しい飲料を開発し、特許を取った。一八八六年に発売されたこの飲料は、アフリカ原産の木の実「コーラ・ナッツ」から抽出したカフェインと「コカイン」を含むことから「コカ・コーラ」と名づけられ、またたく間に大人気商品となった。

 ところが、のちにコカインの危険性が明らかになった。コカインには、その多幸感と引き換えに強い依存性があり、摂取しすぎると生命に危険が及ぶのだ。

 一九〇三年、コカ・コーラ社は「コカ・コーラ」からコカインを取り除き、一九一四年にはアメリカでコカインが違法薬物として禁止された。

 こうしてコカインは、手軽に買える人気の嗜好品から、所持や使用が規制される禁止薬物へと転落した。

 だがコカインが持っていたのは、精神を刺激する作用だけではなかった。医療現場で活かすことのできる、別の効果を併せ持っていたのだ。それが局所麻酔作用である。

ある眼科医の気づき

 コカインが初めて抽出された頃から、コカインを口に入れると舌が麻痺したように感覚が消失し、味がわからなくなる現象はすでに知られていた。

 一八八四年、まだ二十代だったオーストリアの眼科医カール・コラーは、このコカインの奇妙な作用について同僚と話しているときに、ふと興味深い着想を得た。

 コカインを目の局所麻酔に使用できるのではないか。もしそれができるなら、ほぼ不可能だと思われていた「目の手術」が可能になるかもしれない。

針で目を突いても…

 コラーはさっそく実験を行った。コカインの水溶液をカエルの目に垂らし、針で目を突いてみたのである。結果は期待通りだった。カエルは全く動かなかったのだ。

 驚くべきことに、目の表面に針で傷をつけることすら、たやすかった。カエルは痛みを感じていないのだ。コラーは同じ実験をウサギやイヌに行い、さらに自分の目でも試し、その効果を確かめた。

 コカインで痛みが消失するーー。大発見の瞬間だった。この成果は同年、ドイツのハイデルベルグで開催された学会で報告され、局所麻酔法が普及する第一歩になった。

 のちに、プロカインやリドカイン、テトラカインなど、コカインの構造を改良した局所麻酔薬が次々に生まれた。これらの物質には、神経細胞の表面に作用し、痛みの信号を一時的に遮断する作用があるのだ。

外科医の命がけの実験

 コカインに関する報告を知り、一般的な外科治療にも導入しようと試みたのが、アメリカの外科医ウィリアム・スチュワート・ハルステッドである。

 彼は医学生たちとコカインを使った実験を行い、さまざまな知見を得た。

 例えば、顎の中を走行する神経にコカインを注射することで、歯と歯肉にすべて麻酔を効かせることができる。口腔内の手術を行う上で、極めて有用な方法だ。のちに神経ブロックとして普及する、重要な局所麻酔法の一つである。

 だが、ハルステッドの画期的な実験の数々は、お互いが被験者になって行われていた。コカインの危険性が知られていなかった時代だ。これがハルステッドの体を蝕んだ。

 のちにハルステッドは薬物依存症に苦しみ、二度も精神科に入院している。

命がけの戦いの成果

 現代に生きる私たちは、局所麻酔の存在を当たり前のように受け入れている。

 少量の薬を注射するだけで、人は一定時間、痛みを全く感じることなく手術を受けることができる。歯を抜くことも、皮膚をメスで切開して腫瘍を取り除くことも、無痛で行える。

 まさに奇跡の薬ともいえるコカインの歴史には、外科医による命がけの戦いがあったのだ。

(本原稿は、山本健人著すばらしい医学からの抜粋です)

山本健人(やまもと・たけひと)

2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に17万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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