「水しか飲まない人、あるいは何かしら禁欲的な修行を行っている人がいるとして、誰彼となく相手を捕まえては『私は水しか飲まないんです』と言うとしたら――おいおい、水を飲んで何かいいことがあるなら飲めば良いのだ。そうでなければやっていることはただ滑稽なだけだ」

 これには笑ってしまいますね。エピクテトスは明らかに気がついていたのです――飲まないことを鼻にかけるのは、酔っ払ってくだを巻くのと変わらないくらいたちが悪いという不変の真理に。

 というわけで、水を飲むにしても自制心の鍛錬をするにしても、そのことを周囲にアピールしないようにしましょう。

大切なのはハメを外し過ぎず
「しらふ」でいる勇気を持つこと

 ストア派は飲酒そのものには反対ではなく、よくワインが豊富に供される宴会を主催したり参加したりしました。古代ローマ人は日常的にワインを飲んでおり、セネカは高級ワインを大いに楽しみ、自分でもワイン用のブドウ園をいくつか所有していたことで知られています。

 社会的存在であるからには、他の人が飲んでいても自分はその場から姿を消さないのが重要だとストア派は信じていました。飲まなくても祭りやお祝い事には参加し、楽しむのです――ただ、自分をコントロールする力は失ってはいけません。パーティーには加わりましょう、でも酔ってふらふらになってはいけません!セネカは次のように助言しました。

「酔っ払って吐いている集団の中で、自分が酒を飲まずしらふでいるのはかなりの勇気があることを示している。集団に屈して同じようにするのを拒否し、違うやり方をすることで、自分が目立つこともなく、集団の一員になることもないようにするのは、さらなる自制心があることを示している。羽目を外さずに休暇を過ごしてもいいのだ」