日本遠征に向けてモンゴル軍が集結
本の虫課長 フビライは国名を中国風の「元」とします。そして1274年、約900の船隊に3万人以上の兵を乗せ日本へ向かいます。「文永の役」です。元軍は対馬、壱岐を襲って住民数百人を拉致し、博多湾に上陸します。日本側は九州の御家人や水軍・松浦党を中心に応戦。元軍の勢いに押され、「白村江の戦い」後に築いた水城まで退きます。でも翌朝、元軍は撤退していました。
泉岡マリ 撤退? 1日戦っただけでですか?
本の虫課長 はい。慣れない船の上なので体調を崩す者も多く、矢の補充もできない。元軍といってもさまざまな国の寄せ集めだったので、どうもモチベーションが上がらない。しかも暗闇の海上で日本軍が夜討ちをかけてきたら怖過ぎる! と不安に駆られたようです。撤退時には暴風雨に巻き込まれ、元軍は1万人以上が海に沈みました。
泉岡マリ 最大の危機を乗り越えたのですね。時宗助かってよかった!
本の虫課長 でもまた来ますよ。1279年、南宋はついに滅ぼされ、元軍の支配下に入ります。フビライは今度は南宋人を日本に使者として派遣します。しかし幕府は彼らを全員斬首します。
渡辺フミオ え! スルーどころか斬首! 過激すぎる!
本の虫課長 1281年、再び元軍が攻めてきます。第2回目の蒙古襲来「弘安の役」です。約3500の船隊に旧高麗軍と旧南宋軍を含む約10万人の兵を乗せています。今度こそ徹底的につぶしてやるぞという、意気込みを感じる圧倒的な兵力です。
渡辺フミオ 島国なので逃げようがない……。やるしかない!
本の虫課長 そうなんです。当時の武士たちもそんな気持ちでしょうね。背水の陣です。日本軍は徹底的に抗戦し、元軍は博多上陸を断念。さらに日本軍は追撃します。船に乗っていては元軍も得意の騎馬戦や「矢の嵐」は使えない。そのような中、再び暴風雨に巻き込まれて壊滅。総指揮官は逃げ帰ります。
泉岡マリ それ知ってます、いわゆる神風ってやつですよね。
本の虫課長 台風シーズンに何カ月も海の上で待機していたら、そりゃ台風来るでしょ。それで次々と味方の船が座礁したら、逃げたくもなりますよね。報告を聞いたフビライは激怒し、逃げ帰った総指揮官の一族を皆殺しにしました。日本遠征の失敗はフビライの威信を失墜させ、元の内紛を引き起こす遠因になったともいわれています。