「自分は何も持っていない」「いつも他人を妬んでしまう」「毎日がつまらない」――誰しも一度は感じたことのある、やり場のない鬱屈した思い。そんな感情に寄り添ってくれるのが、イラストエッセイ『ぼくにはなにもない 愛蔵版』。小説家だけではなく、大人気ゲーム実況グループ「三人称」の鉄塔としても活躍する賽助氏も本書の読者だ。この記事では本の感想も交えながら、賽助氏が考える「心の持ち方や生き方」について語ってもらった。(構成/ダイヤモンド社・林拓馬)
お正月に「なんとなく続けている」大切なこととは?
お正月に「毎年これをやろう」と決めていることがあるか。
僕の場合、正月は必ずやっていることがいくつかありますね。
ひとつは、毎年恒例でやっている「年越し放送」です。
これは何となく恒例行事みたいな感じになっていて、毎年続けています。
それから正月になると実家に帰って「お年取り」という儀式みたいなものをやります。
これ、ちょっと変わってるかもしれないですね。
お盆の上にみかんとか干し柿、乾燥したスルメみたいなものを並べるんですよ。
それを親から「はい、どうぞ」って渡されて、「ありがとうございます」って受け取るだけっていう本当にシンプルなものなんです。
でも、毎年それをやるのが僕の家の習慣になっています。
うちの母親も「意味はよくわからないけど、なんとなく続けている」と言っていて、僕も正直どんな意味があるのかは全然知らないんです。
でも、不思議と「これは大事なことなんじゃないか」って感じるんですよね。
ただ、「毎年続けているもの」っていうだけなんですけど、なんとなく大事にしたい気がします。
実際のところ、「お年取り」自体はものの5秒くらいで終わるんです。
実家に帰るとお盆にみかんや干し柿が置いてあって、「じゃあこれどうぞ」って渡されて、「どうも」って受け取る。それでおしまいです(笑)。
ただ、こういう「形だけでも続けているもの」って不思議と大事に思えてくるんです。
意味は失われてしまってるんだけど、形だけ残っているという伝統。
惰性で続けていると言えばそうなんですけど、それでもなんとなく「これをやらなくなったらいけない気がする」って思うんですよ。
僕も特に何か意識しているわけじゃないんですけど、「今年もやろうか」という感じで続けています。
理由がわからないのに「大事だからやっていこう」と思えるものって、案外そういう曖昧さが良いのかもしれないですね。
話をしていて、改めてそういうものの大切さを感じました。
(本記事は『ぼくにはなにもない 愛蔵版』の感想をふまえた賽助氏へのインタビューをもとに作成しています)
作家。埼玉県さいたま市育ち。大学にて演劇を専攻。ゲーム実況グループ「三人称」のひとり、「鉄塔」名義でも活動中。著書に『はるなつふゆと七福神』『君と夏が、鉄塔の上』(以上、ディスカヴァー・トゥエンティワン)『今日もぼっちです。』『今日もぼっちです。2』(以上、ホーム社)、『手持ちのカードで、(なんとか)生きてます。』(河出書房新社)がある。