「自分は何も持っていない」「いつも他人を妬んでしまう」「毎日がつまらない」――誰しも一度は感じたことのある、やり場のない鬱屈した思い。そんな感情に寄り添ってくれるのが、イラストエッセイ『ぼくにはなにもない 愛蔵版』。小説家だけではなく、大人気ゲーム実況グループ「三人称」の鉄塔としても活躍する賽助氏も本書の読者だ。この記事では本の感想も交えながら、賽助氏が考える「心の持ち方や生き方」について語ってもらった。(構成/ダイヤモンド社・林拓馬)
「何のために生きているのか?」わからず不安なとき、どうすればいい?
「何のために生きているの?」って聞かれたら、正直、僕も「これだ!」ってはっきり答えられる自信はないですね。
人によっては「これが私の生きる目的です!」って堂々と言える人もいるかもしれません。
ただ、僕自身はそこまで壮大なものを持っていないですし、多くの人にとってもそうなんじゃないかなと思います。
ある生物学者が言った「人間は遺伝子の乗り物で、遺伝子をコピーするために生きている」みたいな考え方がありますよね。
でも、それだけだとちょっと寂しいというか、味気ない気がします。
生きる目的って、結局、人それぞれ違うものだし、しかもその目的って生きている間に変わっていくものだと思うんです。
たとえば、恋人のために生きていた人が、結婚して子どもが生まれると子どものために生きるようになる。
ペットを飼っている人なら、そのペットのために生きる、みたいに。
そのときどきで変わるから、何か一つの明確な答えを持っていなくても、それで全然問題ないと思うんです。
だから、生きる目的について「これが全人類共通だ!」という答えは、多分ないんじゃないかと感じます。
みんなそれぞれに楽しみや目標を見つけながら生きているんだと思います。
結局、「生きる意味を探すこと」自体が生きている理由になる、みたいなこともあるのかな、と。
僕自身は、「人は楽しむために生きているんじゃないかな」と思っています。
楽しみって人それぞれだし、壮大な夢や目標がなくても、日々の中で「これが楽しい」と思えるものがあれば、それで十分じゃないかなって。
ただ、「これが自分の楽しみだ」「これが自分の趣味だ」っていうのを表現すること自体にハードルを感じる人もいるのかなとも思います。
たとえば、「趣味はゲームです」って言ったとしても、詳しい人や熱量が高い人と比べられると、「本当にゲーム好きって言えるのかな?」って思っちゃうこともありますよね。
それで「自分にはこれだって趣味がない」って感じてしまう人もいるのかもしれません。
僕もゲームが好きですが、「どんなゲームでもやっているか」と言われると全然そんなことはないんです。
あるゲームはやっているけど、他のゲームは全然知らない。
だから、「ゲーム好き」って言っても、もっと詳しい人から見ると「それでゲーム好きって言えるの?」って思われることもあるかもしれない。
でも、それでいいんじゃないかなって思うんですよね。
自分が楽しいと思えているなら、それで十分なんです。
「○○界隈」みたいな言葉もよく聞きますよね。
そうやってカテゴリー分けされると安心する人もいれば、逆に息苦しさを感じる人もいる。
界隈の中でもまた細分化されているから、どこまで行っても明確な答えは出ないと思うんです。
結局、自分が好きなものや楽しいと思うことを「自分が楽しんでいるからそれでいい」と思える心持ちが大事なんじゃないかと思います。
仕事でも趣味でも、僕は詳しくなくても自分が楽しめていればそれでいいし、「何のために生きてるの?」という問いにも、大きな目的がなくても「今はこれが楽しいから」で十分だと思うんです。
人生って、壮大なテーマを掲げてそれに向かって一直線に進むというよりは、自転車を漕ぐみたいに、そのときどきでペダルを踏みながら進んでいく感じなんじゃないかなと。
今は右のペダル、次は左のペダルを漕いで、少しずつ進んでいく。
それの繰り返しで生きていくのが普通なんだと思います。
だから、あまり「これだ!」という壮大な目的を考えすぎなくてもいいんじゃないでしょうか。
「来週出るマンガが楽しみ」みたいな、小さな楽しみで日々を回していく。
それで十分だと思いますし、それくらいの気楽さで生きるほうが、結局は幸せなんじゃないかと僕は思っています。
(本記事は『ぼくにはなにもない 愛蔵版』の感想をふまえた賽助氏へのインタビューをもとに作成しています)
作家。埼玉県さいたま市育ち。大学にて演劇を専攻。ゲーム実況グループ「三人称」のひとり、「鉄塔」名義でも活動中。著書に『はるなつふゆと七福神』『君と夏が、鉄塔の上』(以上、ディスカヴァー・トゥエンティワン)『今日もぼっちです。』『今日もぼっちです。2』(以上、ホーム社)、『手持ちのカードで、(なんとか)生きてます。』(河出書房新社)がある。