このサンドイッチは東京駅にある東京ステーションホテルで作られ、JALの銀座の営業所を経由して羽田空港に運ばれた。手掛けたのは、現在の機内食製造大手・ティエフケー創業者の野間口英喜氏だ。
野間口氏は1953年に東京空港サービス社を立ち上げ、東京ステーションホテルから機内食関連の業務を引き継ぎ、59年に東京フライトキッチン(TFK)を設立。今では成田と羽田の工場で月間約100万食、国内外50社以上の機内食を手がけている。
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黄金期:航空移動の発展に伴い豪華絢爛に
1950年代になるとパンアメリカン航空が機内にオーブンを導入したのを封切りに、温かい食事を出せるようになった。この時代はどの国の航空会社も、1970年代に起きる規制緩和までは政府の監視下に置かれ、自由な路線展開はできず、運賃も高いまま。空の旅は富裕層のみに許された贅沢な体験そのものであり、機内食は豪華客船のレストランと同様に捉えられていた。各社は豪華な機内食づくりに精を出すようになる。
例えば1960年代のアメリカン航空では、エコノミークラスでも豪華だった。ビーフコンソメのスープから始まり、メインの鶏むね肉のソテーをワインと共に楽しみつつ、最後はフルーツタルトでお茶を飲むフルコースだった。
この時代のアメリカン航空は国内線しか飛んでいない。それでも、乗客にとって飛行機での旅は相当特別なもの。その期待に応えようと、国内の短距離路線でもこうした機内食を用意していたのだ。
合理化の時代:LCCも台頭し廃止・有料化へ
黄金期の機内食は多くの場合、無料で提供されるものだったので航空会社にとっての負担は大きかった。また、1970年代になると超大型機ボーイング747が登場し、パッケージツアーが普及したことで航空市場の大衆化が進んだ。これにより、豪華なサービスよりも運賃の安さが求められるようになった。
そこで機内食を有料化し、コストを削った分を運賃の安さにつなげた格安航空会社(Low Cost Carrier:LCC)が、1980年代に台頭し始める。このトレンドを受けて、機内食の有料化、はたまた簡素化や廃止する動きが、短距離路線を中心に大手航空会社でも起きた。
日本の国内線においては、1999年~2000年に廃止された。その後、2001年に同時多発テロが起きたのも契機に、米系エアラインによる国内線の機内食廃止は本格化した。2010年のコンチネンタル航空を最後に、エコノミークラスにおける機内食の無料提供はなくなった。