《志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うことを忘れず》(『講孟箚記』講談社学術文庫より)
志士はたとえ溝や谷に落ちて(死んでも)よいと覚悟すべきで、勇士は(戦場で倒れて)首を取られてもよいと覚悟すべきなのだ(筆者訳)、という松陰らしい気迫の文章です。
何をくどくどと説明しているのだ、と、うんざりされている読者もおられるかもですが、「坂本龍馬の言動」というのは万事このような感じで、ほんとの言動から、言いそうな言動から、作家や脚本家が何か別の出典から選んで作中の「龍馬」に語らせたものまで、ほんとに多岐にわたります。
信長、秀吉、家康などの戦国武将と同様、虚像の龍馬の一人歩きがこうして始まりました。
明治期から英雄視されてきた龍馬
戦後の一時期に教科書から消えたナゾ
さて、教科書の指導要領の改変で、「聖徳太子」「上杉謙信」らとともに「坂本龍馬」が歴史教科書から消える、という話が一時期話題となりました。
そのとき、もともと戦前の教科書には坂本龍馬は載っていなかった、坂本龍馬が大きく取り上げられたのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』など小説やドラマの影響があったからだ、というような話も出たのですが、そういうわけでもなさそうです。なんでもかんでも司馬さんの影響にしてしまうのはやや早計です。
曽祖父は明治時代の小説で坂崎紫瀾の『南の海血汐の曙』『汗血千里駒』を通じて坂本龍馬や幕末の志士の活躍を知っていましたし、叔父は国定教科書に坂本龍馬が記されているのを知っていました。私も現物を確認したことがありますが、
《朝廷では、内外の形勢に照らして、慶應元年、通商条約を勅許あらせられ、薩長の間も、土佐の坂本龍馬らの努力によつて、もと通り仲良くなりました》(『初等科国史』昭和18年発行、傍点筆者)
としっかりと「坂本龍馬」の名が出てきています。つまり坂本龍馬は戦前からも教科書に記されていましたし、小説を通じて多くの人たちに彼の英雄的活躍は知られていました。