しかし収録は続きます。
次に驚かされたのは、「本の紹介」がテーマの番組であると聞かされていたのに、そのスタジオにいた人が「そもそも本を読んでいない」ということが如実に伝わってきたからです。
私もこの番組を観ずに出演を決めたので、他人のことばかりは言えませんが、質問をしてもらえはするのですが、おそらく私が書いた本のタイトルと表紙を見て考えたであろう、浅い感じのものに終始していました。
こんな具合で、「自分は何をしに来たのだろうか」と私が思い悩む一方で、収録はさらに進んでいきました。私もいただいた質問に何とか答えようと、口から出まかせに自衛隊の話をして盛り上げようと頑張ってみました。しかし、収録はグダグダなままです。
このように思い通りにいかない収録が進んでいくうちに、私は「何も準備していなかった自分」を恥じるようになりました。
そして「自分はあまりにも何も準備していなかった」という後悔から「やっぱり、自分はダメな奴なのかな……」と自己嫌悪に陥り、どんどんテンションが下がっていきました。
そして、重苦しくきつい時間は流れ、結局、最後は「力不足ですみません……」と謝りながら、私はスタジオを後にしました。
世の中にはセオリーがある
たまたま選ばれただけの自分
上手く収録をすることができなかったという経験によって、私は「自分はやっぱりダメ人間だな……」という失望感を抱えたまま帰ることになってしまいました。
ただ、この話にはオチがあります。がっかりしたまま、後日放映された番組を観ると、なんととても面白く編集をされていたのです。これは予想外でした。
このメディア出演により、私は、大きな気づきを得ることができました。
それは、世の中の物事にはセオリーが決まっていて、それによって世界は決まった通りに動いている、ということです。
ここで言うセオリーとは、あいさつのようなものです。
たとえば「おはよう」と言われたら「おはよう」と返しますよね。そして「じゃあね」と言われたら「さようなら」と返すくらいの習慣に似たようなものです。
私が出演した番組は「MCがメイン」であり、「ゲストはおまけ」というセオリーで出来上がっているものでした。つまり、ゲストなんて誰でも良かったのです。
制作側としては「ぱやぱやくんはテレビに出れて、嬉しいに違いない」「人気のあるMCにいじられるのはオイシイに違いない」「こういう番組だって知っているよね」という認識があったのでしょう。