つまり、メインとなるMCを引き立たせるために、今回たまたま選ばれたのが私でありテレビに呼ばれた「おもしろ素人さん」に過ぎなかったのです。
茶番が繰り広げられるなかで
マジで生きると傷ついてしまう
そう考えると、テレビ局の人の行動の1つ1つも理解することができます。
たとえば、事前の打ち合わせで「匍匐前進をして欲しい」など、自衛隊っぽいことをして欲しいとお願いをされていたことを思い出しました。
それは、私がどういう属性の人間であるかをはっきりさせたうえで、MCが面白くいじりやすいように、そして視聴者に対して「ぱやぱやくんとはこういう人だ」というのをわかるようにしたかったのかなと、あとから思いました。
当日は意味不明だなと思ったので、私は断ってしまいましたが、改めて考えると、制作側はセオリーに沿って収録し、真面目に仕事をしただけだったのかもしれません。
だから、バカにする気持ちなど1ミリもなく、セオリーにしたがって仕事をしているだけで「私に対しては興味すら抱いていない」状況だったのです。
極端な話をすれば、その辺の道ばたでお酒を飲んでいるおじさんだろうが、この番組のゲストは誰でも問題はなかったのです。
私が面食らって、戸惑ってしまったのは、「著者として呼ばれたので、本はちゃんと読んでくれているし、テレビの素人だけど、周りの人はフォローしてくれるだろう」という考えがあったからです。
冷静になってみた私は、この出演をこのように捉え直しました。
この収録では茶番を作って見せようとしたのに、自分だけ「マジ」な状態でいたからショックを受けたのだ、と。
最初から「自分はただの引き立たせ役の素人に過ぎない」と考えていたら、何もショックを受けなかったのでしょう。
しかし、私は「思いをちゃんと伝えよう」とマジになっていたのです。だからこそ、ダメージを受けてしまいました。
その結果、茶番の空気にのまれて、言いたいことを何も言えずに、ただ適当なことを言って帰ることになってしまったのです。
繰り返しになりますが、これはMCが悪い、ディレクターが悪いというよりも、私が「決まっているセオリー」を知らなすぎたために起きた悲劇なのです。
そして、こうしたセオリーが各地で繰り返されることで、世界では茶番が繰り広げられ続けているのです。