暴動は各地で絹紡績や織物、製材などさまざまなところで導入された機械に対して行われました。これは、1811年から12年にかけてラッダイト運動として先鋭化し、ノッティンガムから他の工業地帯にも広がりました。ラッダイト運動は、そのリーダーのネッド・ラッドから名づけられています。ネッド・ラッドが、実在の人物かどうかは分かっておらず、1人のリーダーが先導したというよりも、各地でたまった不満が一気に噴き出したものとみられています。ラッダイト運動からおよそ20年後の1830年から32年にかけては、脱穀機などの農業機械を打ち壊したスウィング暴動が各地に広がりました。

 イノベーションへの抵抗が、このような激しい暴力を伴うことはそれほど多くありません。抵抗のかたちはさまざまであり、暴力を伴わないものがほとんどです。日本でも、打ち壊しのような暴力にまでは発展しなかったものの、スキルへの代替の抵抗は起こっています。

 1969年6月28日の未明、新宿郵便局前に350人の機動隊と警察官が動員され、新宿郵便局前で座り込みをする労働者280人を排除しました。労働者たちは、郵便物自動処理装置(郵便番号の読み取り区分機と自動選別押印機)の導入に反対していた郵便局員たちでした。

郵便番号で仕分けする装置の
搬入阻止で労働者が座り込み

 郵便局では大量の郵便物を仕分けしなければなりません。日本では、その仕分けは近代的な郵便制度が始まった1871年以来、人がずっと手作業で行ってきました。高度経済成長期に入ると郵便物はますます多くなり、仕分けが大変になっていました。

 1968年には仕分けをやりやすくするために郵便番号の制度が発足しました。郵便番号で仕分けをする方が、住所を読んで仕分けるよりもずっと楽です。また、郵政省は電機メーカーと一緒に郵便番号制度の導入に合わせて仕分けの自動化の研究開発を進めていました。

 自動化に対して、郵便局の労働組合は反対していました。仕分けをしていた人のスキルが機械によって破壊されるからです。そして、いよいよ1969年6月28日に自動処理装置が新宿郵便局に搬入されることになっていました。これに反対して、労働者たちは搬入阻止のために、郵便局の出入り口に座り込んだのです。